2014年3月21日(金)
息子達が高校野球でどこを応援するかというと、第一は愛媛県代表なんだな。父親(=僕)が熱狂的な愛郷家で、同一化圧力はきわめて強かったのだ。
第二は母親(=家内)の出身県である兵庫県代表、あとは毎度の大会で応援したいチームを応援する。東京都代表にことさら肩入れすることは少ない。
が、しかし。
今度のセンバツは事情が違うんですよ。
小山台高校、そのメンバーの中に、三男の小・中学校の一年先輩が入っているのだ。長男・次男にとっても小学校の後輩にあたる。これは実名でいいよね、竹下君というのだ。
竹下君、新2年の控え選手だが、何とか活躍の機会がないかと三男の目に星が輝いている。前日20日(木)に卒業式を終えた三男の友達二人、その日のうちに関西へ移動して甲子園球場で観戦している。それで大騒ぎ、ちょうど試合が後半に入るところだ。
とはいえ相手は優勝候補の一画、大阪の強豪・履正社。こちらは21世紀枠の都立高・小山台。実力には相当の開きがあるんだろうが、序盤の小山台は強敵と堂々わたりあう。殊にピンチで3・4番をうちとった伊藤投手の力投は見事だったが、2番の辻に満塁ホームランを打たれて流れを逃した。
問題は打線、履正社の2年生エース溝田の前にまったく打てる感じがなく、内野ゴロの山を築いていく。8回を終わって0-11、エラーによる出塁一人だけで無安打。9回表、既に関心事はノーヒット・ノーラン成るか否かにかかっている。
成らすか、と、ここは小山台のにわかファン。さらに、
「ワンサイドで負けてる場合、終盤に代打攻勢をかけることがあるよね。竹下君、出番があるかもね。」
言い交わしていた通り、9回の先頭打者は代打で凡退、続いて代打に起用されたのは、背番号17、竹下君!
TV桟敷の盛り上がるまいことか。さあ、頑張れ。
その竹下君の打席、ボール、ボール、ストライクのあとの4球目、あたり損ねの小フライが勢いを失って三遊間を転々、サードが素手で拾って懸命のスナップスロー、間一髪セーフのコールに息子らともども勝ったような狂喜乱舞である。
履正社の監督はサードの守備に難を言ったが、ビデオで見る限りあれ以上の守備は誰にもできないよ。セーフになったのは竹下君が俊足の左打者だったからで、そうでなければうちとられている。小学校のリレーのアンカーで竹下君と併走した三男は、嬉しくて仕方ない態で踊り回る。しばしお祭り騒ぎ。
ヒーローは勝者に限ると誰が決めたか、ここにも立派なヒーローありだ。 試合後のインタビューでノーヒット・ノーランが崩れたことを訊かれ、「日頃の行いが悪かったんです」と笑って答えた溝田君も御立派、センバツ初日は上々の滑り出しと見える。
***
ちょうどいいつながりで、都立高校ネタに戻る。
三男が都立高校に合格したと書いたら、H君の奥さんが「私もです」とメールをくださった。別の都立高校の御卒業である。
興味が動いて、都立高校の前身である府立中学のナンバリングを見てみた。
府立一中は現・日比谷高校(1878(明治11)年)・・・ Wikiは1887(明治20)年としているが、これは間違い。)
府立二中、現・立川高校(1901(明治34)年)
府立三中、現・両国高校(1900(明治33)年)
府立四中、現・戸山高校(1894(明治27)年)
・・・・・
最終的に23中学校、22高等女学校を数え、小山台は1922年創立の旧・府立八中である。
一中を東京のど真ん中に置くのは不思議がないとして、二中が立川というのが面白い。これも前に書いたけれど、立川を中心とする多摩エリアは特有の歴史的意義をもっている。江戸時代から開明的な富農の多い土地で、明治維新後は自由民権運動の根拠地となった。もともと神奈川県の北部を構成したはずが、八王子から横浜に至る「絹の道」(=現・JR横浜線の走行に沿った、物資と情報の幹線)を分断する狙いのもとに東京府に組み込まれた。帝都直近の要注意地域である。
西南戦争は1877(明治10)年、府立一中開校の前年だ。西郷隆盛と私学校の例に見るとおり、教育拠点は強力な政治拠点でもあることを、そのような拠点の中で育ってきた明治維新の指導者たちは知悉している。中等教育(前期高等教育とでも言うべきか)の最初の拠点を「お膝元」に置くのは、その意味でも当然。そして東京府内に次の拠点を置くとすれば、立川は日比谷とは違った意味で最有力候補だったろう。1901(明治34)年は遅すぎるぐらいに思われる。
***
半世紀飛ばして、1945年体制で6・3・3・4導入。
当初のモデルは、小中の義務教育は地域の公立学校が担い、高校以降は能力と状況に応じて選択するというものだったはずだ。選択は相互的なもので、受験者は志望校を「選び」、学校は入学者を「選ぶ」。僕が高校に進んだ1972年当時は、まだこれが標準形として生きていた。今それは大きく動揺しつつある。6・3・3・4の制度枠は変わらないが、その意味合いや規定力が大きく変わってきている。
この件に関し、わが家の3人の息子達はそれぞれ違ったパターンをたどった。かなり早い時期から「家はお金持ちではないので、原則として私立にはやれない」と言って聞かせたのを、現在までのところ良い子に墨守してくれた点だけは共通。それはそれとして、
三男は、僕自身と同じく地域の公立小・中に通い、高校で受験した。
次男は対照的に、受験して中高一貫校に通った。付属中学の卒業生は、原則として全員高校に進めるタイプの一貫校である。
長男は受験して某大学の附属中学に入ったが、ここは附属高校に進む際に試験があり、進学できるのは半数程度だったからいわば折衷型である。
結果から見ると、三人それぞれ持ち前の性格に照らして、最もふさわしい進路を与えられた。こういうことは考えて選べることではなく、真に幸運だった。制度に多様性のあることは、こんな具合に利益になる。
ただ、教育制度の標準形としては、第一の(=三男の)パターンを踏襲すべきだと思う。その他のやり方を否定する謂ではないが、それらはあくまで特殊形/少数派に止める方が良いという意味で。
***
理由は単純なことで、中学生までは特殊なコミュニティの中に囲い込むよりも、地域の雑駁な現実に触れながら育つほうが後々のためになるからだ。本人の「ため」でもあり、社会の「ため」でもある。
サラリーマンの子どももいれば、自営業の跡継ぎもいる、裕福な家庭の子もあれば、そうでない者もある、さまざまな事情を抱えたさまざまな家庭から、さまざまな空気や臭いを帯びた子どもが送り出されて集まってくる、結果として地域の公立学校は、地域社会の無作為抽出標本になる。そのような環境で日々ある程度ぎくしゃくしながら過ごすことが、この時期の人間形成にかけがえのない体験をもたらすはずだと、少々アナクロかとも反省しつつ信じている。この時期とは、中学生の時期だ。
中学生と高校生の発達段階の違いは、歴然たるものである。「内省力」あるいは「個としての自我」といった軸で考えてみると良い。これらは、小学生では著しく未発達である。中学の3年間でみるみる成長するが、なお混乱状態にある。高校の3年間に混乱は統合に向かい、多くの者が高校卒業までに成人とほぼ同型のシステムに仕上がる。個人差はあるものの、あらましそんな図式である。
だから、成長しつつも混乱のうちにあり、外界から刻印する力への反発力の乏しい中学時代に、環境からの刺激を過度に統制し選別すると、特定の刺激にしか反応できない(あるいは特定のやり方でしか反応できない)人格を育てる危険がある。そのことを知ったうえで、あえて刺激の統制や選別を行おうとするのが、たとえば陸軍幼年学校の狙いだった。この種の「エリート教育」の効果は甚大で、だからこそ標準形とすべきではないと言うのである。
今日では「地域」そのものが前述のような多様性を失い、「よい」地域と「すさんだ」地域に棲み分けられてしまっているから、効果は期待できないと反論が出そうである。そうした傾向は確かにあるけれど、それをいわば先取りし尖鋭化して、誰も彼もが中学から一貫校に進み(め)たがるのは、よろしくない現状をさらに悪くするばかりだ。逆に学校が地域性を維持・回復するなら、地域が地域性を回復するよすがになる。
というのも、昨今の中高一貫校ブームには、きわめて根の深い背景があるからで・・・
(以下、項をあらためる)
息子達が高校野球でどこを応援するかというと、第一は愛媛県代表なんだな。父親(=僕)が熱狂的な愛郷家で、同一化圧力はきわめて強かったのだ。
第二は母親(=家内)の出身県である兵庫県代表、あとは毎度の大会で応援したいチームを応援する。東京都代表にことさら肩入れすることは少ない。
が、しかし。
今度のセンバツは事情が違うんですよ。
小山台高校、そのメンバーの中に、三男の小・中学校の一年先輩が入っているのだ。長男・次男にとっても小学校の後輩にあたる。これは実名でいいよね、竹下君というのだ。
竹下君、新2年の控え選手だが、何とか活躍の機会がないかと三男の目に星が輝いている。前日20日(木)に卒業式を終えた三男の友達二人、その日のうちに関西へ移動して甲子園球場で観戦している。それで大騒ぎ、ちょうど試合が後半に入るところだ。
とはいえ相手は優勝候補の一画、大阪の強豪・履正社。こちらは21世紀枠の都立高・小山台。実力には相当の開きがあるんだろうが、序盤の小山台は強敵と堂々わたりあう。殊にピンチで3・4番をうちとった伊藤投手の力投は見事だったが、2番の辻に満塁ホームランを打たれて流れを逃した。
問題は打線、履正社の2年生エース溝田の前にまったく打てる感じがなく、内野ゴロの山を築いていく。8回を終わって0-11、エラーによる出塁一人だけで無安打。9回表、既に関心事はノーヒット・ノーラン成るか否かにかかっている。
成らすか、と、ここは小山台のにわかファン。さらに、
「ワンサイドで負けてる場合、終盤に代打攻勢をかけることがあるよね。竹下君、出番があるかもね。」
言い交わしていた通り、9回の先頭打者は代打で凡退、続いて代打に起用されたのは、背番号17、竹下君!
TV桟敷の盛り上がるまいことか。さあ、頑張れ。
その竹下君の打席、ボール、ボール、ストライクのあとの4球目、あたり損ねの小フライが勢いを失って三遊間を転々、サードが素手で拾って懸命のスナップスロー、間一髪セーフのコールに息子らともども勝ったような狂喜乱舞である。
履正社の監督はサードの守備に難を言ったが、ビデオで見る限りあれ以上の守備は誰にもできないよ。セーフになったのは竹下君が俊足の左打者だったからで、そうでなければうちとられている。小学校のリレーのアンカーで竹下君と併走した三男は、嬉しくて仕方ない態で踊り回る。しばしお祭り騒ぎ。
ヒーローは勝者に限ると誰が決めたか、ここにも立派なヒーローありだ。 試合後のインタビューでノーヒット・ノーランが崩れたことを訊かれ、「日頃の行いが悪かったんです」と笑って答えた溝田君も御立派、センバツ初日は上々の滑り出しと見える。
***
ちょうどいいつながりで、都立高校ネタに戻る。
三男が都立高校に合格したと書いたら、H君の奥さんが「私もです」とメールをくださった。別の都立高校の御卒業である。
興味が動いて、都立高校の前身である府立中学のナンバリングを見てみた。
府立一中は現・日比谷高校(1878(明治11)年)・・・ Wikiは1887(明治20)年としているが、これは間違い。)
府立二中、現・立川高校(1901(明治34)年)
府立三中、現・両国高校(1900(明治33)年)
府立四中、現・戸山高校(1894(明治27)年)
・・・・・
最終的に23中学校、22高等女学校を数え、小山台は1922年創立の旧・府立八中である。
一中を東京のど真ん中に置くのは不思議がないとして、二中が立川というのが面白い。これも前に書いたけれど、立川を中心とする多摩エリアは特有の歴史的意義をもっている。江戸時代から開明的な富農の多い土地で、明治維新後は自由民権運動の根拠地となった。もともと神奈川県の北部を構成したはずが、八王子から横浜に至る「絹の道」(=現・JR横浜線の走行に沿った、物資と情報の幹線)を分断する狙いのもとに東京府に組み込まれた。帝都直近の要注意地域である。
西南戦争は1877(明治10)年、府立一中開校の前年だ。西郷隆盛と私学校の例に見るとおり、教育拠点は強力な政治拠点でもあることを、そのような拠点の中で育ってきた明治維新の指導者たちは知悉している。中等教育(前期高等教育とでも言うべきか)の最初の拠点を「お膝元」に置くのは、その意味でも当然。そして東京府内に次の拠点を置くとすれば、立川は日比谷とは違った意味で最有力候補だったろう。1901(明治34)年は遅すぎるぐらいに思われる。
***
半世紀飛ばして、1945年体制で6・3・3・4導入。
当初のモデルは、小中の義務教育は地域の公立学校が担い、高校以降は能力と状況に応じて選択するというものだったはずだ。選択は相互的なもので、受験者は志望校を「選び」、学校は入学者を「選ぶ」。僕が高校に進んだ1972年当時は、まだこれが標準形として生きていた。今それは大きく動揺しつつある。6・3・3・4の制度枠は変わらないが、その意味合いや規定力が大きく変わってきている。
この件に関し、わが家の3人の息子達はそれぞれ違ったパターンをたどった。かなり早い時期から「家はお金持ちではないので、原則として私立にはやれない」と言って聞かせたのを、現在までのところ良い子に墨守してくれた点だけは共通。それはそれとして、
三男は、僕自身と同じく地域の公立小・中に通い、高校で受験した。
次男は対照的に、受験して中高一貫校に通った。付属中学の卒業生は、原則として全員高校に進めるタイプの一貫校である。
長男は受験して某大学の附属中学に入ったが、ここは附属高校に進む際に試験があり、進学できるのは半数程度だったからいわば折衷型である。
結果から見ると、三人それぞれ持ち前の性格に照らして、最もふさわしい進路を与えられた。こういうことは考えて選べることではなく、真に幸運だった。制度に多様性のあることは、こんな具合に利益になる。
ただ、教育制度の標準形としては、第一の(=三男の)パターンを踏襲すべきだと思う。その他のやり方を否定する謂ではないが、それらはあくまで特殊形/少数派に止める方が良いという意味で。
***
理由は単純なことで、中学生までは特殊なコミュニティの中に囲い込むよりも、地域の雑駁な現実に触れながら育つほうが後々のためになるからだ。本人の「ため」でもあり、社会の「ため」でもある。
サラリーマンの子どももいれば、自営業の跡継ぎもいる、裕福な家庭の子もあれば、そうでない者もある、さまざまな事情を抱えたさまざまな家庭から、さまざまな空気や臭いを帯びた子どもが送り出されて集まってくる、結果として地域の公立学校は、地域社会の無作為抽出標本になる。そのような環境で日々ある程度ぎくしゃくしながら過ごすことが、この時期の人間形成にかけがえのない体験をもたらすはずだと、少々アナクロかとも反省しつつ信じている。この時期とは、中学生の時期だ。
中学生と高校生の発達段階の違いは、歴然たるものである。「内省力」あるいは「個としての自我」といった軸で考えてみると良い。これらは、小学生では著しく未発達である。中学の3年間でみるみる成長するが、なお混乱状態にある。高校の3年間に混乱は統合に向かい、多くの者が高校卒業までに成人とほぼ同型のシステムに仕上がる。個人差はあるものの、あらましそんな図式である。
だから、成長しつつも混乱のうちにあり、外界から刻印する力への反発力の乏しい中学時代に、環境からの刺激を過度に統制し選別すると、特定の刺激にしか反応できない(あるいは特定のやり方でしか反応できない)人格を育てる危険がある。そのことを知ったうえで、あえて刺激の統制や選別を行おうとするのが、たとえば陸軍幼年学校の狙いだった。この種の「エリート教育」の効果は甚大で、だからこそ標準形とすべきではないと言うのである。
今日では「地域」そのものが前述のような多様性を失い、「よい」地域と「すさんだ」地域に棲み分けられてしまっているから、効果は期待できないと反論が出そうである。そうした傾向は確かにあるけれど、それをいわば先取りし尖鋭化して、誰も彼もが中学から一貫校に進み(め)たがるのは、よろしくない現状をさらに悪くするばかりだ。逆に学校が地域性を維持・回復するなら、地域が地域性を回復するよすがになる。
というのも、昨今の中高一貫校ブームには、きわめて根の深い背景があるからで・・・
(以下、項をあらためる)