散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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MRI/黄色の花々/シュンちゃん

2014-03-25 23:25:39 | 日記
2014年3月25日(火)

 何だか朝から不機嫌でおちつかず、何だろうと思ったら簡単なことで。
 低血糖だ。

 午前中に大学病院でMRI検査を受けるので朝食は抜き、水分のみ。
 いつも起きがけにグレープフルーツジュース、それから前夜の残りコーヒーを牛乳で割ってグビグビ飲んで、ついでに甘いものをつまんだりするのが朝の楽しみだったりする。それ一式禁じられて、機嫌のいいはずがない。
 本当の空腹 ~ 食べたいのに食べるものがないということを、僕は知らない。それを知らない最初の世代に属している。辛かったろうな、辛いだろうな。
 今の僕らの生活は、つい前世紀まで王侯貴族と富豪だけに許されていたものだ。衣食足って礼節を・・・知ったか?

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 昨夕は遊歩道でレンギョウの開花を見た。十字の花、満開とはいかない、開きかけでおずおずと首を半分あげたぐらいだが、これからしばらく楽しめる。今朝は5月並の陽気だそうで、最寄り駅へ急坂を登る道に、レンギョウとは違った黄色の花弁がちらほら散っている。見上げると脇の家の垣根越しに、ウンナンソケイがこれは見事に咲き誇っているのだ。
 数年前の初夏に別の道でこの花を見て、その家の人に名前を訊いたら丁寧に教えてくださったうえ、小さな株を分けてくれた。それをさらに挿し木で増やし、松山の庭では既に巨大な樹冠をなしている。宝塚のはどうかなと長男にメールしてみると、こちらは思わしくないらしい。花は気配もなく、樹勢そのものが覚束ないという。同じ株でも環境次第だ。
 レンギョウにウンナンソケイ、やがてヤマブキ、遅れてキンシバイにビヨウヤナギ、春から夏へ黄色の花のリレーが始まる。サクラやモモのピンク系は短く華やかに、黄色はその間、通奏低音のように入れ替わり立ち替わり咲き続ける。

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 MRI検査というやつは、なるほど突拍子もない音のするものだ。特に頭のほうから聞こえてくるのは、頭蓋骨の底のあたりを直撃する感じで愉快ではない。高所恐怖や尖端恐怖の気味があるが、幸い閉所は何てことないのだ。ただ、とてつもなく強い磁場に入ることを考えて、少し不安になる。30歳頃の肩の手術、いったん入れたボルトやワイヤーは確かに抜いたはずだが、ひょっとして残ってやしないかな。「コンタクトレンズは磁場の作用で高温になる可能性があるので外してください」とある。白内障手術で挿入した眼内レンズ、これは大丈夫なのかな。眼が熱くなったらどうしよう・・・
 などと考えているうちに検査は始まり、特に問題もなく進んだ。慣れの力は大したもので、音が不愉快とか思っているうちに眠くなってくる。
 「規則正しく、呼吸してもらっていいですかぁ!」
 技師さんにハッパをかけられたのは、どうやらウトウトして呼吸が乱れたらしい。硬い台の上でお尻が痛くなってきた頃、無事に検査終了。20分あまりだったろうか、寝返りもせず固定されているのは、このあたりが限界だ。
 造影剤の点滴は、男性の看護師さんが担当してくれた。僕が勤務した1990年頃には男性の看護師は大学病院には皆無、全国的に見ても精神科病院以外にはほぼ存在せず(!)、従って「看護婦」という名称にも実質的な不都合がなかった。今は大学病院全体で男性看護師が数十名いるという。そういえば放送大学の看護系専任教員は現在3人とも男性である。

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 今治西があっさり負ける経過をネットで確認しながら、職場へ移動する。智弁和歌山を延長15回の激闘の末に寄り切った明徳義塾、その明徳に勝って四国一になったチームがこれでは情けない。今の自分のようだ。
 不毛の午後、どうもうまくない。遅筆なんだから時間はあだやおろそかにできない、というか、時間の使い方がすべてのカギなのに、それをただゴミ箱に捨てるような毎日である。
 帰宅の電車、隣に座った女性が「ケツ」という言葉を連呼している。あまりにデカイ声で繰り返すので、何かそういうコードネームのプロジェクトでもあるのかと思ったが、いわゆる「ケツ」のことらしく、今や自分の「ケツ」がいかに自分の劣等感を刺激するかを、連れの女性(と公衆)を相手に詳述喧伝しているのである。
 先日の大井町線とは微妙に状況が違って「やめなさい」とも言えず、席を移った。離れて見れば、容姿も服装も整った立派な押し出しのOL風である。あれがこれになるのか、どうも残念だと思うのも余計なお節介か。
 その間、携帯電話がひとしきり振動して止まった。着信履歴に、名古屋のJさんの名前。携帯はなるべく使わないようにしており、近場では実際に必要もないので、珍しくかかる電話は遠方が多い。便利な時代である。
 懐かしい相手なので敢えて移動中は返電せず、最寄り駅から家へ向かう道に入って携帯をとりだした。まもなくウンナンソケイが夜目にも鮮やかに浮かぶあたり。
 「あ、石君?」
 名古屋の中学時代、石丸はイシ君と呼ばれていた。Jさんは昔も今もケイちゃんである。
 「あのね、シュンちゃんがね、ホシノシュンジ君がね、死んだんだよ。」
 「え?」
 「今朝の4時頃にね、亡くなったんだわ。」

 「な」の音が高く挙がる、名古屋訛りが街灯の下で小さくこだました。

お国自慢は金沢八景

2014-03-25 08:00:37 | 日記
2014年3月24日(月)

 21日の卒業パーティーで、思いがけない御挨拶をいただいた。
 初対面のK先生、大学で4年下の同窓(歯学部)とのこと。赫々たる経歴の医歯学研究者だが、その成果を教育現場に還元するには教育学の基礎を学ぶ必要ありと考え、放送大学の学生になったのだという。会場では、てっきり教える側の人だと思っていたので、帰宅後にメールをいただいて驚いた。卒業生だったのだ。
 卒業研究では、高校への出張授業を実施しつつ課題の抽出を行ったという。さぞかし良いものに仕上がったことだろう。
 『死生学』に力を貸してくれた京大のN先生は、これまた大学で1年下の同窓だが、かつて統計学を勉強し直す必要を感じた時に放送大学の科目を受講したという。放送大学にはこういう使い方があり、それに堪える水準の教育が提供されている。誇らしく思う。

 メールのやりとりの中でK先生の出身地について何気なく訊ねたら(他人様の名前や出身地に関心をもつのは、僕のクセなのだ)、すぐに詳しい返信をくださった。そのお国自慢ぶりが微笑ましく、また興味深い地歴トリビア満載なので、ブログで紹介するおゆるしを願い、快諾をいただいた。以下、金沢八景に捧げられた讃歌である。
 先に福岡伸一氏の『生物と無生物のあいだ』を紹介した時、本編にも増してエピローグに惹かれたと書いた。(2月9日付け、読書メモ 025 『生物と無生物のあいだ』)
 同じ感動を、自分自身の郷愁に重ねて読む気持ちがする。

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早々にご返事をいただきましてありがとうございます。
さて、出身地ですが、あいにく、近くに裁判所、NHK支局、
公務員宿舎等はなかったので、ご存じの場所ではないかもしれません。

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私の出身は、東京の約40km南に位置する「金沢八景」です。
金沢八景という名前に覚えはなくとも、「金沢文庫」ならば耳にしたことが
あるかと思います。鎌倉時代の武将、北条実時が建設した資料館です。

鎌倉は神奈川県三浦半島の付け根の相模湾側にありますが、
その付け根にある山を切り開いて道を作り、東京湾側に出たところに
金沢八景があり、その道を少し先に延ばしたところが金沢文庫となります。
すなわち、金沢の地は鎌倉武将にとっては保養地かつ、逃げ道の1つでした。

江戸時代には、歌川広重の錦絵に「八景」が描かれるなど、江戸から近い
風光明媚な観光地でした。特に東京湾の眺めがよかったのでしょうか。
明治時代には伊藤博文公の別邸が作られ、そこで明治憲法の草案が
作られたという話も残っています。

現在の金沢八景はというと、「八景島シーパラダイス(水族館)」「横浜市立大学
医学部」「海の公園(東京から最も近い海水浴場)」がある場所といった方が
名が知られているようです。この地域は埋め立て地で京浜急行金沢八景駅からは
新都市交通「シーサイドライン」が通っており、その1つめの駅「野島公園」から
すぐ見下ろせる場所に私の実家があります。

釣り好きの方でしたら、東京湾で釣りのできる場所としてご存じかもしれません。
かつて「釣りバカ日誌2」という映画のロケで西田敏行さん演ずる主人公ハマちゃん
の住む家として実家が使われたこともありました。

その「野島公園」から「海の公園柴口(しばぐち)」までの東京湾に臨む地域は
江戸時代から漁業が盛んで、それぞれ「金沢」「小柴」と呼ばれていました。
特に穴子、しゃこは有名で、今でも江戸前の鮨屋では穴子(金沢)、
しゃこ(小柴)の表示をよく目にします。

小学生の頃(70年代)は、現在の野島公園駅のところに穴子漁の基地が
あり、採った穴子を一時いれておく水槽や仕掛け(細長い筒の奥に餌を入れ、
穴子が入ると出られないようになる)が置いてありました。

この頃(おそらく75年頃)、よく覚えていることが2つあります。1つは、小学校に
プールができたことです。プールのある学校はまだ珍しかったのでしょうか。
「海の近くなのに海で泳げないのはかわいそうだ」ということで、他の地区よりも
早くプールができたのだという説明がありました。

もう一つは、野島に住む友達の家が新築され、その棟上げ式に招かれたことです。
骨組みの上から紅白の餅や紙に包んだ小銭を大工さんが集まった人に向かって
蒔いて祝うというものです。友人の祖父が年だから漁師を辞めるのだと聞きましたが、
この時期、野島は新築ラッシュでした。私は当時はまだ何もわかっていませんでした。

大人になった今、野島公園駅を降り、野島橋から東京湾を臨むとかつて、
天気が良い日にはうっすら見えていた千葉の房総半島を遮る場所に
八景島シーパラダイスが見られます。

この新しい風景は、1960年代に始まった、東京湾横浜地区の大規模開発計画の
結果です。ちょうど、子どもの頃の70年代に漁協に対する漁業権交渉が始まり、
野島地区では漁業権放棄に伴う補償が行われ、おそらくはまず、高齢の漁業就労者が
廃業し、その補償金による家の建て直しが行われたのでしょう。そして、
泳げなかった海は開発に問題となっていた工業地区からの廃水による
汚染によるものだったのだろうと思います。

今では、東京生活の方がすっかり長くなっているにも関わらず、生まれた土地の
ことを書き始めたところ、思いがけず長文になりました。
決して、手放しで褒めるような土地でもなく、自分も戻りたいわけではないのに
語り続けることができる、この思い入れこそが郷土愛なのかもしれません。

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