2014年3月22日(土)・・・前後しましたが・・・
中高一貫校がブームらしい。それは了解しやすいことで。
日本の社会を縦横に織りなしていた各種のコミュニティが、雪崩をうつように崩壊する様を、ここ20年ばかり呆気にとられる思いで見てきた。
地域: 一世紀前には日本人の大多数が属していた農村共同体は、既に壊滅している。「向こう三軒両隣」や「回覧板」に象徴される都市型の地域秩序は、もっと早く消えたのだったか。
職場: 終身雇用制/企業一家主義の時代には、カイシャは単に労務を提供して対価を受けとる場所ではなく、良い意味でも悪い意味でも、それ自体ひとつの共同体だった。年功序列の賃金体系は福祉的機能をもち、仕事のできる者は金銭よりも大きな責任を任されることによって報われていた。これまた、完全に壊滅している。
家庭: 家族の睦み合いそのものの意味が変わったわけではあるまいが、核家族化(=単世代化)、少子化、単身世帯と片親世帯の急増によって、ショック・アブソーバーとしての家庭の許容力が極端に低下した。その意味で家族共同体は、現に存在しているし存在し続けるだろうが、機能的意義が急激に希薄になったのだ。
要するにどれもこれもガタガタである。「日本人は砂のような民族だ」と曰(のたも)うたGHQ要人があったそうだが、その時点では余計なお世話だった。お宅さまが僕らの国を完膚なきまでに叩き壊して、土塊(つちくれ)に変えたのではなかったか。都市をことごとく焼かれ、2発の原爆を落とされてもなお、アメリカ人なら「砂」にならないものだろうかね。
しかし今こそ僕らは、砂のように風の谷間を右往左往している自分に気づかないといけない。「孤独な子育て」や「孤老」はその象徴で、この種の問題は困難を抱えた人々を真っ先に直撃する。ライオンが狙うのは、群から脱落する弱った草食獣だ。
そのような危機感は人々の共有するところで、皆が何らかの形で砂漠化に抵抗すべく躍起になっている。コミュニティ再編成の動きである。
その典型的な例が「中高一貫指向」だというのだ。中学高校の柔らかい6年間を共にした集団は、しばしば生涯にわたる絆を形成する。中高が大学に直結している場合はなおのことで、この絆が職場にまで持ち越されることも少なくない。その周辺で配偶者を見出し、こうした人生を幸せと感じれば、子ども達を同じ学校に入れようとするだろう。
中高一貫指向は単なる学習効率上の要請などではなく、コミュニティ再編という大きな流れの一分枝だ。
これ以上の能書きは不要だろう。
もちろん、そこにはそれなりの良さがある。しかしこの種のコミュニティが排他性/閉鎖性をもつ点には、重々注意が必要だ。コミュニティ一般についていうなら、排他性や閉鎖性が直ちに「悪い」とは僕は思わない。時に他所様(よそさま)には御遠慮いただき、家族だけで睦みたいと願うのは人の本性に属する。
ただ、教育の場である学校が、そのような思いに過度に引きずられるのは問題だ。ともすれば排他的/閉鎖的になりがちな人間を、より大きな世界に対して開(ひら)き啓(ひら)くことこそ、教育の大事な役割だからだ。内にばかり目の向いた相互扶助的な同窓集団は、教育のこの目的に根本的に逆行する。そこに投入される素材がいかに優れていても、あるいは優れていればいるほどcommon welfare から逸脱し、時にはこれを阻害する恐れすらある。
***
くどいようだが、以上は「標準形」についての話である。少々変わった学校が散在し、標準におさまらない生徒を集めてある種のコミュニティを提供するのは、これはまた心楽しむ眺めというものだ。
わが家の場合で言えば、次男はそのような「特殊形」に出会ったおかげで、人生そのものをきわどく拾った気がする。
次なる連想は、「再・階層化」とでもいうのかな、「階層」とは違うか、何しろ「二世・三世」があらゆる場面に多く見られていて・・・そうか、「世代間伝達」か。
いったんやすみ / intermission(響きが似ていて面白い)
中高一貫校がブームらしい。それは了解しやすいことで。
日本の社会を縦横に織りなしていた各種のコミュニティが、雪崩をうつように崩壊する様を、ここ20年ばかり呆気にとられる思いで見てきた。
地域: 一世紀前には日本人の大多数が属していた農村共同体は、既に壊滅している。「向こう三軒両隣」や「回覧板」に象徴される都市型の地域秩序は、もっと早く消えたのだったか。
職場: 終身雇用制/企業一家主義の時代には、カイシャは単に労務を提供して対価を受けとる場所ではなく、良い意味でも悪い意味でも、それ自体ひとつの共同体だった。年功序列の賃金体系は福祉的機能をもち、仕事のできる者は金銭よりも大きな責任を任されることによって報われていた。これまた、完全に壊滅している。
家庭: 家族の睦み合いそのものの意味が変わったわけではあるまいが、核家族化(=単世代化)、少子化、単身世帯と片親世帯の急増によって、ショック・アブソーバーとしての家庭の許容力が極端に低下した。その意味で家族共同体は、現に存在しているし存在し続けるだろうが、機能的意義が急激に希薄になったのだ。
要するにどれもこれもガタガタである。「日本人は砂のような民族だ」と曰(のたも)うたGHQ要人があったそうだが、その時点では余計なお世話だった。お宅さまが僕らの国を完膚なきまでに叩き壊して、土塊(つちくれ)に変えたのではなかったか。都市をことごとく焼かれ、2発の原爆を落とされてもなお、アメリカ人なら「砂」にならないものだろうかね。
しかし今こそ僕らは、砂のように風の谷間を右往左往している自分に気づかないといけない。「孤独な子育て」や「孤老」はその象徴で、この種の問題は困難を抱えた人々を真っ先に直撃する。ライオンが狙うのは、群から脱落する弱った草食獣だ。
そのような危機感は人々の共有するところで、皆が何らかの形で砂漠化に抵抗すべく躍起になっている。コミュニティ再編成の動きである。
その典型的な例が「中高一貫指向」だというのだ。中学高校の柔らかい6年間を共にした集団は、しばしば生涯にわたる絆を形成する。中高が大学に直結している場合はなおのことで、この絆が職場にまで持ち越されることも少なくない。その周辺で配偶者を見出し、こうした人生を幸せと感じれば、子ども達を同じ学校に入れようとするだろう。
中高一貫指向は単なる学習効率上の要請などではなく、コミュニティ再編という大きな流れの一分枝だ。
これ以上の能書きは不要だろう。
もちろん、そこにはそれなりの良さがある。しかしこの種のコミュニティが排他性/閉鎖性をもつ点には、重々注意が必要だ。コミュニティ一般についていうなら、排他性や閉鎖性が直ちに「悪い」とは僕は思わない。時に他所様(よそさま)には御遠慮いただき、家族だけで睦みたいと願うのは人の本性に属する。
ただ、教育の場である学校が、そのような思いに過度に引きずられるのは問題だ。ともすれば排他的/閉鎖的になりがちな人間を、より大きな世界に対して開(ひら)き啓(ひら)くことこそ、教育の大事な役割だからだ。内にばかり目の向いた相互扶助的な同窓集団は、教育のこの目的に根本的に逆行する。そこに投入される素材がいかに優れていても、あるいは優れていればいるほどcommon welfare から逸脱し、時にはこれを阻害する恐れすらある。
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くどいようだが、以上は「標準形」についての話である。少々変わった学校が散在し、標準におさまらない生徒を集めてある種のコミュニティを提供するのは、これはまた心楽しむ眺めというものだ。
わが家の場合で言えば、次男はそのような「特殊形」に出会ったおかげで、人生そのものをきわどく拾った気がする。
次なる連想は、「再・階層化」とでもいうのかな、「階層」とは違うか、何しろ「二世・三世」があらゆる場面に多く見られていて・・・そうか、「世代間伝達」か。
いったんやすみ / intermission(響きが似ていて面白い)