散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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今日は何の日/冷戦再来?

2014-03-20 09:51:15 | 日記
 1995年3月20日 地下鉄サリン事件
 2003年3月20日 イラク戦争(第二次湾岸戦争)開始

 ろくなもんじゃない、好きな日なのにな・・・

 2006年3月20日 WBC第1回大会で日本優勝。
  
 口直し、ですね。

 2014年3月20日(木)
 三男の中学卒業式である。
 
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 18日にロシアがクリミア併合を発表、「G8崩壊の危機」「冷戦再来」などの文字が新聞で踊っている。
 米と西欧の安定した同盟関係が「グローバル」の大筋をリードし、これにロシアが対立し中国が介在する、冷戦時代の聞き慣れた構造に逆戻りだが、無論あの時代と「同じ」ということはない。歴史はパターンを繰り返すが、アイテムや環境は必ず更新されている。
 とりわけ強く意識されるのは、「共産主義」というイデオロギーの不在だろうか。かつて世界の半分を覆い、殊に発展途上地域で強力な求心力を発揮したスローガンが、今は存在しない。そのことに、おそらく功罪両面がある。
 かつて東西のイデオロギー対立は、それ自体マルクス・エンゲルスの言う意味でのイデオロギー的な側面をもっていた。経済的・即物的な次元の葛藤が、イデオロギー対立の装いで糊塗される。糊塗といっても、それが教育を通して浸透する時には、多くの人々にとって「真実」となるから厄介だ。そして人は自分のうちに刷り込まれた「真実」のために、命さえかけようとするようになる。それが冷戦時代の厳しさであり、危うさだった。
 ただし、これは共産主義に対する一方的批判ではない。「こちら側」だってまったく同じ構造をもっている。例のイスラム本で、「西側のいわゆる人権思想や民主主義が、限りなく宗教に近い(=イデオロギー的である)」ことが指摘されていたのを思い出せば良い。西と東はそのように対照的/対称的な拮抗関係にあった。そして「あちら側」の奇怪さを通して鏡像的に「こちら側」の歪みを知ること、知り得ることが、あの時代のひとつの健全さだった。
 別の言い方をするなら、あの頃の「東」と「西」は互いに alternative (二者択一的)な関係にあり、「ひょっとして壁の向こう側には、こちら側にはない良さ・正しさがあるのではないか」と心ある人に考えさせる何かが、大気中の稀ガスのように地球表面を覆っていたと思う。僕自身、1982年に半日だけ東ベルリンに入った時には、そのような体験をさせてもらったのだ。商業広告の全くない都市の、何と清浄で美しかったことか。そして東側市民の素朴な笑顔が、西ベルリンのそれと違って何と柔和だったことか。

 今、よくも悪くもそうした緊迫感はない。核ミサイルボタンの押し間違いひとつで両側もろともに消し飛ぶ悪夢もないかわり、「向こう側」との対抗関係の中で「こちら側」を高めようとする動機づけも作動しない。あるのはただ並列的な「列強」の離合集散、これでは冷戦に先立つ剥き出しのパワーゲームへの退行だ。「永続するイデオロギーはただ一つ、ナショナリズムだけだ」と嘯(うそぶ)いたドゴールが、それ見たことかと高い鼻をいっそう高く掲げることだろう。

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 卒業式の話に戻ろうか。

交友投分 切磨箴規 ~ 千字文 046

2014-03-20 08:22:31 | 日記
2014年3月20日(木)

○ 交友投分 切磨箴規(コウユウ トウブン セツマ シンキ)
 「切磨」は「セツバ」ともあてるらしい。

 友人との心からの交わり、それは気持ちがよく合うこと
 互いに磨きあい、いましめあうもの

 箴規に「いましめ、いましめる」の意があるという。
 
[李注]
 気質と志が一致してこそ、まことの交友となる。互いにいましめ、教えあい、いっしょに正しい道を歩むべきである。良くないところがあれば、必ずいましめよ。箴(ハリ)が病気を治すようなものである。

 親友(シンユウ)とは、箴友(シンユウ)のことだったか。
 誰に対して親友/箴友であり得たか、振り返って忸怩たるものがある。僕だけでもないか、あるいは絶滅危惧種かもしれない。

付記: フェレイラと小石川養生所

2014-03-20 08:08:42 | 日記
【付記①: フェレイラ】
 フェレイラこと沢野忠庵については、キリシタン弾圧史の文脈/遠藤周作の小説で知っていたが、医学史で言及されるのは初めて見た。これも「異文化交流」の一面か。

 クリストファン・フェレイラ(Cristóvão Ferreira, 天正8年(1580年)頃 - 慶安3年10月11日(1650年11月4日))は、16世紀のポルトガル人宣教師。イエズス会士であったが、日本において拷問によって棄教し、沢野忠庵(さわの ちゅうあん、忠安とも)を名乗ってキリシタン弾圧に協力した。遠藤周作の小説『沈黙』のモデルとなった。
*
 1644年(正保元年)にはキリスト教を攻撃する『顕疑録』を出版した。これとは別に、天文学書『天文備用』や医学書『南蛮流外科秘伝』などにより、西洋科学を日本に伝えている。
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 フェレイラの娘婿に門下の医師・杉本忠恵がいて、のちに幕医となっている。
(Wikipedia)

【付記②: 小石川養生所】
 一投書から起案されたというのが興味深い。

 江戸中期には農村からの人口流入により江戸の都市人口は増加し、没落した困窮者は都市下層民を形成していた。享保の改革では、江戸の防火整備や風俗取締と並んで下層民対策も主眼となっていた。享保7年(1722年)正月21日には麹町(現東京都新宿区)小石川伝通院(または三郎兵衛店)の町医師である小川笙船(赤ひげ先生として知られる)が、将軍への訴願を目的に設置された目安箱に貧民対策を投書する。笙船は翌月に評定所へ呼び出され、吉宗は忠相に養生所設立の検討を命じた。
(Wikipedia)

『医は仁術(?)』展のこと

2014-03-20 08:08:32 | 日記
2014年3月18日(火)の書き残し。

 新聞屋さんが「医は仁術」展の入場券を2枚くれた。折良く長男が神戸から戻っていたので、一緒に出かけてみた。国立科学博物館である。春一番の吹き荒れる午後、2時間あまりがすぐ過ぎた。

 実際には江戸時代の医学・医療事情といったもので、資料は興味深いものが多々あった。漢方といっても既に純然たる中国流を離れ、日本人がかなりの程度までカスタマイズしたものである。時とともに分化して独自の諸流派を生むのは自然の流れであり、中でも従来の思弁的な「理論」に飽き足りぬ人々が、より古い時代の「理論」に立ち戻りつつ実証性を高めようとした経緯は、儒教における「古学派」、あるいは洋の東西を問わず見いだされる温故知新の傾向と照応するようで面白い。

 やはり圧巻は、蘭学導入に伴う日本人の実証性への覚醒過程だが、これも受け入れ側に準備状態が熟していたからに違いない。杉田玄白や山脇東洋の名は象徴的だが、彼らばかりが突出していたわけではない。(時期としては後者の方が早い。山脇東洋ら、1754(宝暦4)年、京都。杉田玄白ら、1771(明和8)年、江戸。)
 1819(文政2)年に、中津藩で九州初めての腑分け(解剖)が行われた。(福沢諭吉を生んだ中津、不思議な進取の土地と見える。)
 1822(文政5)年には仙台藩で腑分けが行われ、こちらは婦人の解剖として初のものという。
 長崎から入ってくる刺激が京都や江戸で発火し、それらが同心円状に(?)波及・浸透して、九州と東北でほぼ同時に反応を起こす。幕藩体制下でも人の好奇心や知的欲求は止めがたく広がり、タコツボを横断する新しいコミュニティの到来を予告するようだ。

 もうひとつ驚くのは、こうした情報が受肉していく速さと、伝え方の工夫の豊かさだ。論より証拠を末尾に載せておく。驚いたことに「フラッシュ禁止だが撮影はOK」、ということは撮影画像を個人ブログに載せるのも「あり」と解釈されるので。
 
 なお、素材はとても良いのだが、展示の方向性にやや首を傾げるところがある。
 「日本の医道は本来仁術であり、常にそうであった」ということが反復連呼されるが、いっこうにエビデンスが示されないのでかえって嘘くさい。「日本の医療はすべての人々に開かれていた」と書かれた直後に、「医者にかかれるのは金持ちだけで、一般庶民は売薬が頼りだった」とあるという具合。
 「昔、医は仁術ではなかった」と喝破する、なだいなだの筆法を懐かしく思い出した。
 入り口のオープニング映像はまったく無意味で「大沢たかおの無駄遣い」(長男)、出口の8分間アニメはステレオタイプなお涙頂戴で、展示の効果を高めるどころかすっかり白けかえらせる。訪問者の知能程度をよほど低く見積もっているのかしらん。
 内容は医療制度の話ではなく、医療技術や医学思想の移入と継受の物語なのだから、それにふさわしいタイトルにすれば良いのに、何をどう勘違いしたんだか。

 以下、画像

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会場案内


「解体新書」に触発されて(?)製作された「解体人形」
内臓の取り外し部品がついて精密だ。

 
「解体人形」の産科版。
 なお、胎児は「頭部を下」が正常体位であることを指摘した産婆さんがあり(あるいは産婆は皆、経験的に知っていた?)、杉田玄白がこれを記載したのが1804年だか何だかで、これはヨーロッパ医学の中で同じことが発見されたのにさほど遅れていないんだそうな。
 

 全身の骨格標本。よくできている。
 「肋骨、一対足りなくない?」
 「そう思っただろ、よく見たらちゃんと12対あるんだよ」
 「マジ?・・・・ほんとだ。」


「内臓人形」
 これが薬屋の店頭に宣伝用に展示されたというんだから、江戸庶民文化は侮りがたい。