散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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竹細工とウンナンソケイ

2014-03-27 09:27:25 | 日記
2014年3月27日(木)

 昨日、仕事が長引いて徒歩移動は叶わず、大江戸線と銀座線、新旧の地下鉄を乗り継いでぎりぎり時間に間に合った。季節の美味を味わいながら、S先生と語らう。
 清酒を供する竹の器が面白いので、頼んで写真を撮らせてもらった。
 田舎の敷地内に竹が勢い盛んである。物干し竿ばかりでなく、こんな細工ができたら良いんだが。

 

 帰宅すると田舎から荷物が届いており、ウンナンソケイ一枝、見事に開いたのが添えられてある。東京と松山と同時開花だ。名古屋でも、むろん咲いているだろう。
 
 

 今宵発つ 君が形見の花便り

H君の白耳義通信 ②

2014-03-27 09:06:45 | 日記
2014年3月26日(水)

H君より:
 ベルギーというのは面白い国で、19世紀半ばから第一次大戦までは、1830年に独立した若い国ながら、世界で二番目に産業革命を経験し、工業がトップクラスで、かつ、コンゴの植民地から富も集め(収奪ですが)、建築(アールヌーボー様式が代表)、絵画・彫刻、文学、音楽など、ブルジョワ文化が一気に開花し(かつ、新興国なので、文化的制約が弱く、アバンギャルドでした。ボードレールや亡命したのもベルギー)、他方で、労働者運動、社会主義運動も活発化した。
 この時期のベルギー絵画は特に素晴らしく(同時期のフランス絵画より秀作が多いと思います)、アールヌーボー建築も好きで、ブリュッセルは街が美術館です(ただし、都市計画の失敗で、虫食い状態ですが)。ちょうど、国立美術館内に世紀末美術館がオープンしたばかりで、時間があれば足を向けてみたいところです。
 ご明察のとおり、ヨーロッパでは100年目の今年、第一次世界大戦に関する書物、テレビ番組が目白押しです。ヨーロッパにとっては第一次大戦は第二次大戦以上に、決定的な事件だったことは、ロンドン在外研究時代に痛感しましたが、いま、ウクライナ情勢が緊迫し、決定的な画期になる危険があるだけに、考えさせられます。BBCのニュースは、ウクライナ情勢とマレーシア航空機事件を延々扱っています。昨日のオランダにおけるオバマ大統領の記者会見もライブで見ました。(ちなみに、東海村の核廃棄物をアメリカに送付して処理を依頼した日本の決定は、評価されています。)

H君へ:
 ベルギー通信、楽しみに拝見しています。
 ベルギーと聞いての僕の連想は、すべて貴兄が触れていることですが、

○ フランドルの文化、特に絵画
○ チョコレート(=コンゴからの収奪とその成果の洗練度。ベルギーのコンゴ統治はヨーロッパ列強のアフリカ統治の中でも最悪と聞きました。)
○ EU本部(=ヨーロッパの「首都」)
○ 二つの公用語
○ オランダと一対(プロテスタント vs カトリック)

 といったところでしょうか。浅薄ですね、どうも。

※ 以前に紹介した英観光庁の「外国人観光客対策」の中に、「ベルギー人には、同国の複雑な政治や言語圏の話をしようとしてはいけない」というのがあったのを思い出した。(『エスニック・ステレオタイプ』当ブログ2014年2月11日 )

H君より:
 元々同一国だったのが、宗教革命後の政治的対立状況で、プロテスタントが血を流して独立を勝ちとったのがオランダというのは、同一言語なのに、享楽的なベルギーと禁欲的なオランダであることを現地で実感すると、プロテスタントと禁欲の深い関係を思いますね。
 ただ、因果関係はよくわからない。まずい食事に耐えられるのは味蕾の作りという遺伝子のなせるわざであれば、そういう遺伝子の人がプロテスタントに流れたということかもしれない。英米も・・・。あのころ、船に乗って太平洋を渡って政府と国と社会を作ってしまうというのは遺伝子レベルのなせるわざのような気がします。そのうち証明されるかも。
 陸続きというのは面白いもので、電車に乗ってアントワープから少ししてオランダに入ると、別に国境に線が引いてあるわけではありませんが、風景が一変します。
 木が直線状に並んでいる。幹も、気のせいか、まっすぐ天に向かって直立しているのがオランダです。街も非常にきれいで、ベルギーとは大違い。
 ライデンに去年行って(2010年から毎年この時期ベルギーに滞在)、シーボルト博物館に感動し、江戸時代日本の文化的洗練と、幕末の志士の心意気を追体験しましたが(西周、津田真道、福沢諭吉)、街が非常にクリーンで、生真面目そうな人々(服装も顔の表情も)にも強い印象を受けました。スコットランドに似ているという印象は、予備知識がもたらす先入見かもしれないですけど・・・。

H君へ:
 粗食といえば、「食事を大事にしない国ほど早く近代化した」という説もありますね。
英ついで独ということでしょうが、フランスはどうなるのかな。「遺伝子」説、面白いかもしれない。遺伝子研究が進むにつれ、遺伝子で説明される範囲が拡張しつつある印象ですし。
 「国境で風景一変」の件、私はちょうど逆方向、つまりドイツから国境を越えてオランダに入った時に同じことを感じました。雪の備えか、急な屋根と分厚い壁をもったドイツの頑丈な家屋が、低い屋根と大きな窓をもった明るい平屋群に一瞬にして変貌し、そこここに風車が立っているという具合でしたっけ。
 オランダとスコットランドの共通点、って、やっぱり思いました?
僕はまさに「予備知識による推測」しかもっていないのだけれど、両方を訪れた貴兄の観察なら確かでしょう。
 プロテスタントの歴史の中で、両国はいわば二大拠点なんですよね。
 オランダ改革派とスコットランド長老教会は、アメリカのプロテスタントの源流ビッグ2とも言えそうです。「改革長老教会」と一括りにされるぐらいで。(日本特有の括り方かもしれませんが。)

 あと面白いのは、「ケチで頑固で融通が利かない」が双方共通のステレオタイプということでしょうか。
○ ジョーク2題

【その1】
 スコットランドのバスに旅行者が乗り込むと、乗客は一人だけ。
 頭上の屋根に大穴が開いて、そこから雨が降り込んでいるが、客は動こうとしない。
 「あんた、席を替わったらどうなんだね?」
 すると男は周りを見回して答えた。
 「誰と替わるんだい?」

・・・これは本で読みました。

【その2】
 You know how to tell a rock from a Dutchman?
 Just keep watching them. If one of them moves, that one is the rock.

 こちらは、オランダ系アメリカ人が教えてくれたんです。自分でも大笑いしながら。
 いわゆる自虐ネタですかね。
 ミシガン州にその名も Holland という街があり、植民者の苦難のおかげで、今では全米有数の住みやすい場所になっています。そこの人に教わりました。

 2つのジョークは、オランダ人とスコットランド人を入れ替えても通用しそうだなと思ったのでした。

H君の白耳義通信 ①

2014-03-27 08:15:53 | 日記
2014年3月26日(水)

 H君がベルギー訪問中である。
 さぞ楽しんでいることだろう、論より証拠メールの文面が躍っている。

 ヨーロッパ大発展の理由について、司馬遼太郎は「同じようなサイズの多数の国々が割拠してしのぎを削っている」という単純な条件を指摘した。それで片づくかと疑問もあるけれど、重要なことではあるだろう。
そのような視点から、さしずめベルギーなどは最もヨーロッパらしい国ではあるまいかと思われる。スイス、大英帝国の中の「小国」スコットランド、ベルギーと対をなすオランダ、留学するならそういうところが良い。H君は嘗てスコットランドにも滞在した羨ましい人で、当時もらったリビングストンの銅像の絵ハガキは今でも机の前に貼ってある。
 本人の了解のもと、早速メールを転載する。いかにも温かな建物だ。

***

 お元気ですか。

 3月13日よりベルギーの某大学に滞在しています。派遣研究員の身分で、残念ながら4月4日帰国です。

 大学附属の宿舎は、世界遺産でもある中世の女子修道院群の1つの建物の部屋です。周囲は煉瓦の塀に囲まれた町外れの一角で、約100の修道院群です。私のいる建物は7世紀に、篤志家が貧しい子供が住んで勉強したり手に職を身につけるために寄付して建てられた修道院です。
 写真を添付しました。右と左の建物がクロスするあたりの木のすぐ後ろの2階に住んでいます。久しぶりに大学院時代に戻った感じで(当時よりは、すらすら書けます)、論文執筆三昧です。

 行きの機内で佐藤彰一『禁欲のヨーロッパ』(中公新書の最新刊)を読みましたが、キリスト教がローマ帝国の国教となって、政治権力化してからは、宗教として原理的におかしくなったのであろうこと、そのなかで、荒野で単独で修道する人が注目され、それが、集団的な修道院としてヨーロッパに広がり、そこから大学も生まれ、宗教改革の母体ともなった、という筋道が実感されます。ウエーバーのテーゼ、資本主義の精神は内此世的禁欲である=現世で修道士としてビジネスに励むということも。
 ヒルティの幸福論も持ってきましたが、彼は教会制度や神学には批判的で、ストア哲学(マルクスアウレリウスとエピクテトス)とキリスト教(というより聖書)と、法学・法実務がベースであることを改めて認識しました。
 一高のケーベル先生や岩本先生を通じて、戦前から戦後にかけての日本の東京帝大系知識人に影響を与え、神谷美恵子さんにも続いている知的水脈ですね。
 残念ながら、このような日本の教養主義も風前のともしびですが・・・。

 ではまた。

***

 訂正、私の泊まっている女子修道院の建物(The Convent of the Presentation)は、7世紀ではなく、17世紀=1638年ごろの建築です。
 書物から抜粋しておきます。

 House Nr. 27: The Convent of the Presentation

 This convent is also called the 'New Convent' or the ' Asseldonk Convent'after Anna Van Asseldonk, a wealthy lady from 's-Hertogenbosch in the Netherlands who lived in Brussels. She made provision in her will for 5 boys who wanted to learn a trade or study the humanities, and 8 burses for "girls who wanted to learn to sew, make lace, or do other feminine hand work". Preference was to be given to poor children from her 'fatherland', 's-Hertogenbosch.

 She also provided an auxiliary legacy to build a house where the girls could have "sleeping quarters, heat and light, soup, and small beer for the thirst". Girls who wanted to become beguines could retain theiir burses during the juniorate. Anna Van Asseldonck died in 1638, and the house was duly built. Above the door is a beautiful rubensian terracotta of the Presentation of Mary in the Temple.