散日拾遺

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エチオピアの宦官/ある門出

2014-06-01 07:50:41 | 日記
2014年6月1日(日)

 本文は事実のみを記して簡潔だが、丁寧に見ていくなら事実が自ずと語り出し、やがてのっぴきならない状況が浮き彫りになる。そういう筆法が聖書の随所に見られる。
 今日のJCは使徒言行録8章後半だが、これなどもその好例であることに、あらためて気づく。

 ここに描かれるのは、エチオピア人の宦官。
 それだけで、この男がエルサレムの神殿で受けた扱いは、あらかた知れる。
 エチオピアの女王の高官であっても、外国人は神殿のある部分から先へは立ち入れない。異邦人の庭が彼の踏み込める限界である。
 おまけに宦官。
 レビ記22章の規定は捧げ物とする動物に関するものだが、神の前に欠けのある身体を曝すことへの畏れは、人であっても同じことだ。自身が去勢されたものであることを、彼が曝したかどうか分からないが、はるばるエチオピアからやってくるほど信心深い者、この種の瑕疵を嫌う掟の厳しさに、魂の萎む思いをしてきたこと疑いない。

 天使はフィリポに、エルサレムからガザへ下る道で彼を見出すよう命じる。
 ガザは地中海岸の港町で、その歴史は非常に古い。紀元前15世紀、トトメス3世のシリア侵攻でたびたび登場するというから、古さも尋常ではない。紀元前12世紀にはペリシテ人が都市国家を建設したとあり、パレスチナ人にとっては象徴的にも重要な街、イスラエルに不当に奪われたという認識を改めようもないであろう。
 それはともかく、トトメスの時代からエジプト・シリア間の交通の要衝であったというのは、陸上交通だけでなく水上交通の拠点だったからではあるまいか。さしあたり確実な根拠はないけれど、ガザからアレクサンドリアまで船で行き、そこからナイルを遡行してスーダンからエチオピアへ入ったのではないかと思われる。ガザで船に乗り込んだ瞬間、男のエルサレム詣では事実上終わる。もっとも、「船」にさほどこだわる必要もなくて、ガザは新約時代のイスラエル領の南端に位置し、この町を出て南へ向かえば既に他国の人である。
 つまり、
 男のエルサレム詣でがまもなく終わる、その前に彼に追いつけと天使は命じたのだ。残された時はわずかしかなく、しかしまだわずかに残っている。

 男がこの地へ何しに来たか、車上で聖書を朗読する姿から自ずから明らかだ。この時代の「聖書」は言うまでもなく「旧約聖書」、当時の国際語コイネーで書かれた「七十人訳」が男の前に置かれていた。魂の救いをもとめてはるばる来たり、しかし二重の壁にあつく拒まれて失望落胆、それでも魂の渇きは救いを求めて止まず、自身では理解できずユダヤ人の誰も解き明かしてはくれなかった預言の書を、声を絞って朗誦する。
 そこへフィリポは遣わされた。干天の慈雨、「仕える」とは「遣わされる」ことである。

***

 キスト岡崎さゆり宣教師のパワフルな説教に養われ、午後からはクチブエ君の結婚式。
 新横浜駅からシャトルバスで10分ほどの式場へ、33℃の猛暑に負けず、ずいぶんな人数の若者と昔若かった者が集まった。
 「新郎側のお客様は右へ、新婦側は・・・」
 「シンロー、って、どっちだっけ?」と心細そうな声、心労のあるほうに決まってるだろ。
 人垣の中に、勝沼さんとKokomin さんの姿があり、遅れてイザベルさんもやってきて全員集合。
 勝沼さん、週の半分は福島だという。続けることの貴さを思う。一昨日だったか、シンガポールが福島産の農産物を解禁したニュースがあった。シンガポールという国では、何かしっかりした知恵が働いているように昔から感じている。中国の良さが、本国よりもここに受け継がれているといったような。

 式の初めに新婦の入場を迎える時、クチブエ君の表情が僕の記憶にあるどの瞬間よりも優しく柔和であった。それを見届けたから、あと何も言うことはない。

 シャトルバスが見慣れた川を跨いできたことに気づいていたので、帰りは歩いてみる。10分ほどで勝手知ったる鶴見川、綱島まで5kmほどの地点だ。柵を乗り越えて歩道に上がり、夕風の中を綱島方向へ。
 すれ違う人が妙にこちらを見ると思えば、それはそうか、一目で結婚式帰りとわかるいでたちだもんね。
 やがてそれもこれも宵闇に沈み、空にはくっきりと三日の月。
 今日は12,000歩あるきました。