散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

シモン・ペトロとヤショダラ妃

2014-06-10 20:08:51 | 日記
2014年6月10日(火)

 先週、書きかけにしていた。

 主からサタンと呼ばれた気の毒な人、むろん僕らの代表としてであるけれど、それは聖書ではマタイ16章(マルコ8章、ルカ9章)に記される愛すべきシモン・ペトロである。その直前、ペトロは主をキリストと告白し、主はペトロに「天の国の鍵を授ける」と仰せられた。そのペトロが主に叱責される。

「サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを思っている。」
(マタイ16:23)

 手塚の『ブッダ』では、過酷な行に命懸けで取り組むシッダールタを妻ヤショダラが気遣って戒めるのに対し、シッダールタが同じく「悪魔(マーラ)よ、去れ」と命じる。
 涙で抗議する妻に、お前の人格ではない、わが求道(ぐどう)を妨げようとするお前の心に対して言ったのだと、シッダールタは諭すのだけれど。
 手塚版だけではダメだね、ちゃんと読まなければ。

 師が最も愛した者、あるいは師を最も愛する者が、それゆえにこそ「悪魔」と呼ばれる。
 この愛は、その愛ではないのか。
 悪魔とは誰か?わたしにとって、あなたにとって・・・

掛川城と男のペディキュア/耶蘇の四十九日

2014-06-10 11:39:26 | 日記
2014年6月9日(月)

 関西に長居したいはやまやまなれど、今週は忙しいので早々に戻ってきた。
 新幹線が名古屋を出てしばらく走った頃、線路の北側に小さいけれど形の良いお城が見えるのに、ふと注意を惹かれた。急いで看板類に地名を探せば、遠州掛川である。掛川は宿場とばかり思っていたが、城下町だったのか、誰のどの城?

 帰宅後に調べて、無知を恥じた。掛川城は今川の武将朝比奈氏の創建にかかる、小さいながら重要な意味をもった城である。今川氏が滅んで後は徳川氏が領有し、家康の関東移封後は山内一豊が入って城郭を大いに整備した。『功名が辻』の舞台だ。
 遠州経営の重要拠点として江戸時代には常に譜代が配置され、最終的に太田氏 ~ 江戸城を築いた太田道灌の一族が入ったとある。日本初の木造復元天守、日本百名城の42番に選ばれているそうだ。小さいが綺麗な天守である。

 疲労の中でぼんやり眺めを楽しんだ後、新横浜で下車して目が覚めた。
 横を歩くサンダルの爪先に、ピンク地に金キラのかわいいペディキュア、しかしその脚はどうみても男の毛脛である。ニューハーフとか植物系とかは縁遠い、アロハシャツとGパンがはち切れそうな、太くてでっかい胴体を支える兄ちゃんの脚だ。
 びっくりした。男のペディキュアは初めて見た。

*****

 書こうかどうか迷ったけれど、やっぱり書いてしまおう。
 
 DSMに「死別反応」というカテゴリーがある。親しい人物と死別の後、一過性に抑うつ症状が出るのは自然なことであろう。それが正常な喪の反応である限り、「うつ病」とは区別して扱う必要がある。
 では、その期間はあらましどれほどか。無論この種のことには個人差もあり文化背景もあって、どこまでが正常でどこからが異常かなどと峻別する意味はない。承知の上で、あえて治療者に注意を促す意味で目安の一線を引くとしたら、その期間はどれほどだろうか。
 これは受講者に考えてもらう好個の素材なので、よく投げかけてみるのである。正解のある話ではないからと発言を促すと、まずはいろいろな意見が出る。1か月?3か月?6か月?諸説出るうちに、やがて誰かが思いつく。
 「四十九日はどうでしょうか?」
 これが出ると教室は一瞬湧き、それから「なるほど」といった空気が広がっていく。オチをつけるタイミングである。
 仏教のことは詳しくありませんが、初七日に始まって七の倍数で喪の期間が進んでいく中、とりわけ四十九日がこれほど日本人の生活に定着してきたのは、七×七という落ち着きの良さばかりでなく、それが人の心の実情に適っていたからでしょう、ちなみにDSM-Ⅳは死別反応を二か月までとしますが、四十九日とそこそこ近い数字になっていますね・・・

 実際、四十九日は庶民の知恵の反映でもあると思われる。これだけなら別に書くのを迷う理由はないのだけれど。
 あのですね、キリスト教にも「四十九日」があると思ったのだ。牧師先生方、どうぞ怒らないでください。決してフマジメな話ではないのです。

 ペンテコステはユダヤのいわゆる五旬節、キリストの復活から50日め、それに三日先立つ主の死からも約50日、50日めすなわち満49日で、不思議な附合がここにある。
 ペンテコステは聖霊が下った日だが、これは去りゆく主の約束に従って送られた(贈られた)もので、それは同時に「あなたがたを孤独に捨て置くことはしない、いつまでも共にある」という主の約束の成就である。この日を境に弟子たちは喪の悲しみを克服し、聖霊という形で主の臨在を取り戻す。まさに喪の明けではないか。
 この神秘は深いと僕は思うのだ。
 以前にも書いたような気がするけれど、一人の人間が他の人間を確かに自分のものとするためには、別れが必要なのである。現実の対象が奪われた時、僕らはいったん深い悲しみの淵に沈む。しばらくの間 ~ あらまし50日ほどは、自分を取り巻く空間に穴が開いたとしか思えない。しかし時が経つにつれ、その欠落はいつしか故人の(あるいは別れた人の)思い出によって丁寧にふさがれていく。それは抜歯の後の歯肉の盛り上がりのように、緩やかでありながら確かで力強い。現実の対象が存在した時には、その人と実際に会うことでしか感じられなかった臨在が、かえって常住坐臥、自分の内外に生き生きと満ちるようになってくる。内的な対象関係の回復、いな確立である。
 ペンテコステに、まさにそのことが起きたのだ。

 今年2014年の聖霊降臨日は昨6月8日、龍谷大学内の放送大学滋賀学習センターで面接授業二日目を行いつつ過ごした。不思議な気持である。

面接授業@滋賀 ~ その2

2014-06-10 10:54:21 | 日記
2014年6月8日(日)

 体は疲れているが、気分はよほど和んでいるのが二日目の常である。
 学生さんたちと顔を合わせ、一日の作業を共にして親しんだからだ。

 一日目の昨日は瀬田からバスで龍谷大まで行った。バスの運転手さんがたいへん感じよい。
 僕の後から降りた女性が、何かとても喜んでいる。
 「15年も前に、ここの学生だったときの回数券が残ってたんで持ってきたんです。使えました!料金が少し上がってたけど、ちゃんと使えました!」
 ということは・・・
 「ええ、ここの卒業生で、今日は放送大学の面接授業に来たんです。」
 「精神医学?」
 「そうです。」
 「それはようこそ、私、講師です。」
 「え、ほんとだ先生、お久しぶりです!」
 挨拶されて思い出した。三年前、京都学習センターの面接授業に出席していた女性だ。

 同じ時刻にバス停に着いたのに、今日はバスがいない。時刻表を見ると、8時台の2本が「日曜運休」、次の便まで20分近くある。陽ざしが強くて蒸し暑い。ふと見回せば、昨日教室で見た顔ぶれが、女性ばかり何人か同じように不服顔で立ち並んでいる。数えてみると僕以外にちょうど7人。
 「4人ずつ、タクシーで行きましょか。」
 「それがええわ、そうしましょう。」
 那覇でも関西からの出張男性とタクシーを乗合した。こういう話のスムーズに進むのが、いかにも関西らしくて気持ちいい。

 受講者が50名近くと多いせいもあろうが、こんなに質問が活発なことは珍しく、発言が的を射ていることにも感心する。当事者や家族、職場上司といった立場の人々も、いつもに増して多いのである。
 たとえば・・・

 いわゆる現代型うつ病について、講師(=石丸)の説明したような経緯と現状であるなら、いっそ「うつ病」とは別のものとして別の名称のもとに論じたらどうなのか。
 うつ病が自分自身に対する攻撃であると考えられるなら、これが反転して外に向かうことで、各種の社会問題を説明できるのではないか。
 生まれつき聴覚障害をもつ人が統合失調症に罹患した場合、「幻聴」に相当する症状はどのように現れるのか。
 等々・・・
 洗練されたものもナイーブなものも混じってはいるが、一様にみな真剣で熱心なのはいつもの通り。身銭を切り、自分の時間を割いて、勉強したいことを勉強しに集まってくる。これが本当の大学だ。

***

 帰り支度をしていると、「現代型うつ病」について質問した男性が「よろしかったら・・・」と声をかけてくれた。京都まで車で帰るので送りましょうかと、これも初めての経験である。所長先生に一言ことわり、有り難く乗せていただいた。途中の会話を楽しんだことは言うまでもない。
 僕より少し年上の、充実した職業経験をもつ人で、日曜大工が趣味という落ち着いた雰囲気、その印象通りの運転をなさる。この人が定年を見越して求職活動したとき、とある職場の面接で「高卒」の学歴をあからさまに見下される経験をした。それでナニクソと思ったのが放送大学入学のきっかけであるという。
 学歴で人を見下す性根には呆れるが、それがこういう人を発奮させて放送大学に送り込んだなら、何でも役に立つものだ。
 昨年、卒論を書いた助産師のMさんも、かつて助産師学校の教員に応募した際、「なんぼ経験があっても、専門学校卒ではダメ」と言われて発奮したのだった。
 放送大学は、まさしくこの人々のものである。

京都で夕食

2014-06-10 06:57:22 | 日記
2014年6月8日(日)

 昨夕、一日目の授業を終えて瀬田から京都に戻り、早い夕食は駅ビルの食堂街でやっつけることにした。
 京都での飲食は3年前の面接授業で懲りている。イナカ者がイチゲンの行き当たりばったりで美味飽食できるようなシステムに、この街はできあがっていない。それでも京都まで来てトンカツでもなかろうと考え、11階の和食店のカウンターで少し高めの湯葉づくし定食に、玉乃光を一合頼む。85分の授業を4コマ、立ちっぱなし、しゃべりっぱなしの一日の終わりに、冷酒が気持ちよく喉にしみること。
 カウンターの向こう端で、白人女性がザルそばの器を積み上げ、慣れた手つきで啜っている。音立てて啜るのは西洋人の最も苦手とするところだが、中には見事に適応してのける日本通もあるのだ。御茶ノ水のラーメン屋で出会ったオーストラリアのビジネスマンを思い出す。
 彼女と僕の間に、日本人の女性が腰を下ろした。定食が運ばれ、箸をつけるが早いか、携帯に着信でもあったらしく、そそくさと立っていく。蕎麦の大椀から空しく湯気が立ち上っている。
 一分ほど経っただろうか、着物姿の年輩の仲居さんがやってきて、椀にサランラップをかけていった。無論、蕎麦が冷めないようにとの配慮である。やがて戻ってきた女性が一瞬これを眺め、ラップを取って食事を再開した。

***
 
 京都人に対して深く敬意を抱きつつ、好きにはなれないと長らく思っていた。
 言葉は丁寧だが肚(はら)の分からぬ、「おいでやす三寸」の気の世界。素朴愚直な多摩農民の新撰組幹部らも、さぞ辟易したことだろう。京都人の方は新撰組の粗暴蛮勇に辟易したことであろうが、どちらかといえば「イナカ者で悪うござんしたね」と居直る側に肩入れしたくなる。『燃えよ剣』に、土方歳三が関東から流れてきた女と出会い、一気にのめりこむのも自然に思われる。

 ところがこの時、少し違ったことを初めて感じた。
 実は好きなのではないか。
 自分自身がその輩であるために、かえって煩わしくもあるのではないかしらんと、何だかそんな気がした。

 「おおきに、またお越しやす」
 他所では聞けない挨拶である。