散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

診療雑感 ~ 同労者の手紙 / 兄弟の変貌

2016-10-23 09:09:38 | 日記

2016年10月21日(金)

 ある人の具合が悪くなり、入院するということがあった。そうまとめてしまえば一言だが、病識なしに激しく行動化する若い人を、両親がなだめすかし人手を借り計略までもめぐらして受診させ、しかし最初の病院では今どき信じがたい拒絶的な対応に直面し、胃に穴が3つ4つあきそうな右往左往の末ようやく入院にこぎつけた経緯は、それだけで一冊の本が書けるほどである。

 僕はあまり役に立たなかった。クリニックの雇われ医者としてできることはしたというものの、しょせん言い訳にすぎない。ともかく事故に遭わず入院してもらえたのが幸いで、この病院なら後はしっかりやってくれるだろう。そこへ入院先の担当医から連絡文書が届いた。

 「・・・民間救急を利用しての受診でしたが、先生の診療を通じて培われた医療者への信頼に助けられ、大過なく入院していただくことができました・・・」

 こんなこともあるのかと、30年目の驚きである。

 僕ではない、この手紙を書き送ってきた医師が偉いというのだ。「長いこと診ていたくせに十分な対処もできず、そのツケを回してよこして」と横向いて文句を言う場面なら珍しくないし、そうまで言わないとしても、忙しい仕事の合間に紹介元に対する共感性と配慮を働かすことは簡単ではない。この医師はきっと非凡な働き手である。

 思うに、見も知らぬ同労者との間に信頼感をもてるか否かは、そのコミュニティの未来を占う重要なポイントではないだろうか。精神医療のこの点に関して楽観的な予想をもてずにいたが、今日ささやかな反証を手にした。返事を書く手が軽く踊っている。

***

 通ってくる女性の患者さんが、男きょうだいの無理解を嘆く場面に繰り返し出会ってきた。もちろん逆や裏のパターンもあって、どちらが多いといったデータをもつ訳ではないのだが、軽くもない症状を抱えながら家事や介護の負担を担う女性に対して兄や弟が無理解・非協力であること、少なくとも女性の側からはそう感じられるという状況が一つのステレオタイプを為していた。

 ところが、そのようであった兄・弟が「変わる」ということを最近立て続けに聞かされている。経緯はさまざまで、同居する父親の認知症がいよいよ重くなって娘(=通院患者)の手に負えなくなった時、30年来ほとんど手を貸さず口も利かなかった弟が思いがけず介護に加わり始めたとか、似たような状況で妹(=患者)が堪忍袋の緒を切らし20年ぶりに公然と兄を非難した ~ したたかに殴られるか、悪くすれば絞め殺される覚悟で ~ ところ、これまた思いがけず兄は黙って妹の言葉の嵐を受けとめ、あろうことか労(ねぎら)いの言葉を返し、翌日からわずかずつ態度を改めたとか。

 「何十年かの間に、兄/弟も何かを経験して変わっていたんです」と複数の女性が異口同音に語り、つい最近まで想像もできなかった希望の色が表情にあるのを、ただ眩しく眺めている。もっと早く、もっと建設的な形でそうできなかったかと惜しみつつ、いかに遅れたにもせよ予想を超えて和解の訪れたことが驚かれ嬉しいのである。

 あわせて、家族がひとつの生き物であることをあらためて痛感する。誕生し、成長し、老い、最期を迎え、別の形で別の代に再生する。まさに生き物である。

***

 他にも良いことがあったが、一度に書くともったいないので今日はここまで!

Ω