散日拾遺

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『徒然草』と二畳間のこと

2016-10-12 08:05:38 | 日記

2016年10月11日(火)

 連休明けにいきなり充実の一日、午前中はTVの広報番組に使うというので、4~5分ほどのインタビュー収録があった。内容はコースの紹介である。僕の使う定番のフレーズがあって、

 「生活と福祉コースの重要性については、かの『徒然草』もちゃんと言及しています」というのである。前に書いたっけかな?以下の下りだ。

 「思ふべし、人の身に止むことを得ずして営む所、第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。饑ゑず、寒からず、風雨に侵されずして、閑かに過すを楽しびとす。たゞし、人皆病あり。病に冒されぬれば、その愁忍び難し。医療を忘るべからず。薬を加へて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ、欠けざるを富めりとす。この四つの外を求め営むを奢りとす。四つの事倹約ならば、誰の人か足らずとせん。」(第123段)

 「医療」という言葉はこの時代既にあったのね、衣食住+医療が生活の根本というのだ。これを確保する社会システムが「福祉」で、さすがに鎌倉時代にはなかった言葉、あれば兼好さんは使っていたことだろう。「生活と福祉」コースの領域構成は、生活(=衣食住)・福祉・健康(=保健体育・看護・医療)なので、まさしくこの段が指摘するものとぴたり一致する。

 ついでのことに、兼好さんはこれを「貧・富・奢」の判断基準とする。衣食住+医療が充足されているのが「富」、これに何らかの不足のあるのが「貧」、これらを超えてさらにほしがるのを「奢」とする。きわめて明快で、近代的ですらあるだろう。医学部の学生時代にこの段を読んで、ここに示された4条件を求める権利が基本的人権中の社会権であり、これを国民に保障するのが国家の責務と立論してみたことがあった。

  そして今、生活と福祉コースの方向性がここに明確に示されている。人の生活の豊かさとは何か、貧を避け奢を戒めつつ真の豊かさを追求していくのが当コースの筋目なのですよと。

 『徒然草』は筆致明快で叡智に富み読んでは面白く、西暦1300年代初頭に書かれていることを含めて日本文化の至宝の一つに違いない。「その『徒然草』に当コースのことがちゃんと書かれています」というのは、なかなかキャッチーだと自惚れるのは僕だけで、大学院のガイダンスなどで触れても反応が今ひとつなのだ。

 「え、いいじゃないですか」「これでいきましょう」と制作スタッフは例によって褒め上手であるが、「読んだことある?」と突っ込めばディレクターさんもインタビューのアナさんも、「古典の時間に・・・」「題名は覚えてます」と笑って視線をそらすのである。読んでみなよ面白いんだから。猫又の話とか、京(みやこ)人と東(あずま)えびすとどっちが親切かとか、下世話に面白いのだ。そうでなければ800年も読み継がれないよ。

***

 午後はラヂヲ、懸案の特別講義収録である。三人のコラボなのが気楽で楽しい。一人は子どもの貧困や家族システムについて精力的に考究・発言していらっしゃるA先生、上記区分で言う生活領域のリーダーである。家族論は精神保健福祉の急所でもあるので顔が合うと必ずスリリングな議論になり、そこに福祉のB先生が居合わせたりするとこれはもう侃々諤々(カンカンガクガク)の大騒ぎである。昨年度末のある会合でA先生と盛り上がってるのを見た他コースのC先生が、「これ、そのまま録音したら45分の講義が一本できますよ」と提案なさり、もちまえの実行力であっという間に実現にもちこんだ。ほんとはC先生の独演こそ、奔放痛快でイチオシなのだけれど。

 スタジオの鼎談ではさすがにあまり崩れるわけにもいかず、粛々と進んで大過なく終えたが実はその直前の打ち合わせランチが最高に面白かったのである。面白さの由来を考えてみれば、やはりお二方ともきわめて豊かな人生経験をもっておいでなのだ。

 C先生の御実家はお医者さんの家庭だったそうだが、そこには常に居候がいた。遠縁の女性が駆け落ちして相手の男性を連れて転がり込んで来たりし、それをその家の女子中学生(=C先生)がしっかり観察して「この男はやめといたほうがいいんじゃないかな」などと品定めしている。そうして人生経験を積んだわけだが、ポイントは家庭という場が活発な出入りを許す開放系だったことだ。開業医は地域の名士でもあったから、C先生の父上は医療とは関係ないことで若い者によく説教を垂れていたという。

 A先生のほうは父上が学校の先生である。こちらは地方の素封家でもあって、やはり遠縁の女性が居候したりしていたが、こちらは駆け落ちではなく苦学生だった。昼間は近隣の家庭の子守などし、夜は定時制の学校に出かけていく。一族あげて教育には熱心だが、数多い子どもたちの全員を学校に出すことはとても家計が許さないので、こういうやり方をとったのである。それを支えるゆるやかな親族のまとまりが当時たしかに存在した。

 面白いのは、A先生宅に寄留するこれらの女性が、「玄関脇の二畳間」に寝起きしていたことである。これは僕にも思い出があり、松山の家(築80年余!本来の日本家屋は決してウサギ小屋などではない、木造でもしなやかに堅牢である)では前庭に面した南向きの二畳があるが、松江で2年間住んだ家屋(先日書いたハト小屋のあった家)はまさしく玄関脇に二畳間があった。

 これらは本来、下男下女の寝室とされ、玄関番の機能も兼ねていたと思われる。二畳間と聞くと今の人は狭さばかりを強く感じて「使用人のつらい境遇」を連想するかもしれないが、そうでもないのね、これ案外快適なのだ。布団はちゃんと敷けるし、布団を上げれば(押し入れは必ず付いている)作業空間としては十分な広さである。正方形なので案外使い勝手が良い。論より証拠、小5・小6の二年間というもの僕は望んでこの部屋を使わせてもらい、小さな机と本箱をもちこんで悦に入っていた。松山の二畳間はその昔、父が旧制中学校の受験勉強に使ったそうである。むろん小学校のチビ助たちの話だが、思い出の中の二畳間は成人後の四畳半ぐらいの広さがあった。成人には窮屈でも、世の中に居場所寝場所があるという安心感は保障されていただろう。「立って半畳、寝て一畳」とはよく言ったもので、二畳あれば回天の構想を立てるに十分だ。

 この面白い小空間が、「居候」や「縁側」とともにすっかり過去のものになった。現代をしっかり見つめるA先生もC先生も、前世紀の二畳間と共に生い立った人々である。こうした根を失って次世代の日本人は大丈夫かというのが、僕は心底心配なのだ。

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