散日拾遺

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慰める/慰められる

2016-10-09 08:47:55 | 日記

2016年10月9日(日)

 「主に慰められた者しか、人を慰めることはできない」

 4か月ほど前、CMCCの30周年記念会の席である姉妹が語った言葉である。静かにはっきりと語る人で、人生の長さと密度も加味されて、大きな共感と感謝をその場に生み出した。

 ところが今こうして書いてみると、誤解されそうな危うさが字面にはある。人を慰める気もちになれない者を裁くとか、信仰体験をもたない者を排除するとかいった誤解である。もちろんM姉の発言にそんな意味合いは微塵もなく、その場にいた者も誰一人そうした意味合いでは受け取らなかったはずである。彼女はもっぱら自分自身について語り、自分の出会いを証したのだ。

 言葉が生きたものであり、語られた文脈や場の空気と切り離しては正しく解釈できないことを思う。書かれた聖書だけでは足りず、霊の助けを借りて語られねばならないということでもあるのだろう。

 あるいは、いっそ対偶をとってみたらどうか。「人が人をよく慰める時、その背後に必ず主の慰めが先行している」と。

 強い雨の中、それぞれが出かけていく。

Ω