2018年7月26日(木)
駅前でY君に出会った!「時計じかけのオレンジ」の彼である。
こちら2丁目、彼1丁目、隣の町内に住みながら何十年も見(まみ)えなかったのに、昨日ブログで「同窓会の誘いについぞ返信がない」などと書いたら、その明日にこれだ。小説やドラマなら「出来過ぎ」「御都合主義」と槍玉にあがるところ。往古はこういう時に「言霊が人物・事物を呼び寄せる」と考えたのだろうか。そう信じて間違いでもない気がしてくる。
「メール行ってる?」
「来てる来てる、また返信するよ。」
聞きましたよ、返事が来なかったらまたブログに書いちゃうぞ!
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昨日リハ病院の3階居室で、姿を見るなりNさんが破顔一笑、
「あらよく来てくれたわねえ」
どっと安堵があふれた。その日一人で家にいたNさんは、まだ意識のあるうちに自分で119番通報なさったのである。それを聞いて以来この瞬間をどれほど不安に待ったことか。
ベッドの周りに大小の作品、クロゼットから取り出されたスケッチブックには絵もあれば折り紙も貼られ、NさんはどこにいたってNさんである。
「描いてあげるわ、ほら」
6Bの鉛筆を手に、つれあいと僕の似顔をものの5分で描きあげた。瞬時に特徴をつかみ、誰を描いても温かい。僕が誰だか、覚えてなくても分かるのだ。
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スケッチブックに小さな切り抜き、「折々のことば」から
『ムッシューイノクマ、きみの絵はうますぎる』(アンリ・マティス)
画家の猪熊弦一郎は、パリでの修業時代、自作を携え、憧れのマティスを訪ねた。その時マティスにこう言われた。「対象を良く見つめることなく、ただテクニックだけで描いている」と。
画家の修業は、恵まれた才能を押し殺し、世界にイニシアティヴを明け渡すことから始まる。画家に限らず、何ごとにも小器用、小細工はいかん・・・
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絵はとんと分からないが、Nさんの画業がうますぎる小細工でないことぐらいは、いくらなんでもよく分かる。いまこの時もその通り、どこを切ってもその人が現れ、いつでもどこでも画家は描く。
画家が描くなら、君は何する?
Ω