散日拾遺

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虚像と実像 ~ ラフカディオ・ハーン

2018-07-30 15:19:59 | 日記

2018年7月29日(日)

 Nさんのマネをしたくて6Bの鉛筆を買ってみたら、これが驚くべきものである。先端を紙に触れただけで、もう黒々と線が描かれている。筆圧が要らず、筆で書いているような錯覚すら起こす。筆圧をかけないから圧痕を生ぜず、線は濃いのに消しゴムで綺麗に消えて紙を傷めない。手でこするとカスれてしまう難はあるが、こすらなければ良いだけの話。

 手帳やメモの走り書き、読書時の書き込みなどに最適で、未知の新たな筆記用具を手にしたかのように嬉しく持ち歩いている。絵やスケッチは・・・今のところ描いていないです、はい。

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 放送大学は単位認定試験監督の季節、台風通過地域の学習センターは気が気でない。広域を覆う事態でも実況にはバラツキが大きく、東京の4センターは予定通り試験を実施したが、千葉では昨日の4限目以降の試験が延期になった。別日程の試験に同一問題を使うわけにはいかないので、こういう時のために作っておいた予備問題の出番となる。

 太田雄三『ラフカディオ・ハーン ー 虚像と実像』(1994)が昨日届いたので、監督の空き時間に通読した。「稀代の親日家にして日本文化の良き理解者・紹介者」という通念に疑問を投げかけたもので、その点をねっちり反復力説したために、Amazon のカスタマーレビューでは八雲ファンから(?)けっこうな反発が出ている。とはいえ筆者はきちんと資料や論拠を明示して論じており、レビューアーの少なくとも一部は過度に感情的である。このぐらいのことは承知のうえでファンを名乗りたい。

 僕は小学校3年〜6年の松江時代、遊びに来る親戚知人の案内役を仰せつかって記念館通いを繰り返し、それでいろいろ覚えこんだ。「アイルランド人の父とギリシア人の母」と聞いて今風の国際結婚をイメージしたものだったが、実際には19世紀の大英帝国領土内で起きたことである。

 父は確かにアイルランドに在住したがイングランド出身の国教徒で、要するにイギリスの軍医である。母はイオニア諸島の産で、これがまた当時イギリスの保護領だった。さらにこの地はヴェネチアに支配された歴史があり、母の第一言語はイタリア語だったという。

 こうした出自が西インド諸島から中東、インド、極東におよぶハーンの放浪癖につながったが、外面的な経歴とは裏腹にその精神は決して開かれたコスモポリタンではなかったというのが、太田論考のポイントである。ハーバート・スペンサーと俗流社会進化論が幅を利かせた時代でもあり、ハーン自身、獲得形質の遺伝を前提とした文化論に立ち、「西欧人と日本人は(いつになっても)決して互いに理解しえない」という趣旨のことを繰り返し述べたという。してみると虚像の形成は、ハーンの問題というより日本人の問題なのだ。

 その意味で特に重要なのは短い終章で、とりわけ「日本人のハーン発見」がいつ、いかなる形で起きたかということが鍵になる。答えは下記。

 「結局、日本人の多数がハーンの日本についての著作の愛読者になるためには、日本のいっそうの近代化、産業化、都市化などが進み、ハーンの描いたような日本が、半ば消え去った世界として日本人自身にエキゾチックな感じを与えたり、ノスタルジアを感じさせたりするようになるまで待たなければならなかったのではないだろうか。そして、こういう意味で潜在的なハーンの愛読者が大量に存在するようになった時期とは、江戸の面影をほとんど消してしまったという関東大震災(1923年)による破壊を経た大正末から昭和初めぐらいのことであろう。」(P. 188-9)

 こうした自然な懐古欲求は、やや遅れて始まる国粋主義と翼賛体制のあおりを受け、人為的に高められることになる。振り返れば、そもそもハーン来日の年が1890年という微妙な時期で、

 「1870年はじめごろにピークを迎えた西洋文明摂取の熱意にあふれた文明開化の時代や、鹿鳴館が象徴するような1880年代の欧化主義の時代と違って、欧化主義への反動ともいうべき色彩が強まってきて、排外的ナショナリズムの現れも目につくようになった」(P.79)

 とある。遅れてきたお雇い外国人としてのハーンには逆風の時代だったが、それから30年余を経て排外・国粋の風が新たな装いで吹き始めた時、皮肉にも今度はハーンの遺業を称揚する追い風となった。ハーン評価のこうした揺れに、明治から昭和にかけての日本人の右往左往が刻印されている。

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 残念ながら、フェノロサの第二の妻となったメアリー・スコットの話は本書には出てこない。新書版で取り上げるほどの意味が、ハーン側からは存在しそうにない。

 代わりに二点抜き書き。

 「この小泉八雲、日本人よりも日本を愛するです」(P. 11)

 ハーン晩年、東京時代のある日の言葉とされる。これが二様に読めて面白い。「日本人」は主格か目的格か、つまり「日本人が日本を愛する以上に、この八雲は日本を愛する」というのか、それとも「この八雲は日本人を愛するよりというよりも、むしろ日本を愛している」というのか。

 これ実は揚げ足取りというもので、むろん前者の意味で言われたに決まっている。しかし、敢えて後者の意味に読んでみたらどうだろうか。ハーンは現実の日本人を愛したのではなく、彼自身の思い描く古い理想の日本を愛したのではなかったか。

 もうひとつは先の引用(P. 188-9)に含まれていた、「関東大震災が江戸を消し去った」という言明である。

 昭和の大事件をあげる時、戦争・敗戦が筆頭にくるのは当然として、時にはそれに近いほど関東大震災を強調する人々がとりわけ古い世代にあった。被害の規模やそれが引き起こす喪失の甚大さは承知するものの、偶発的な自然災害を世界規模の巨大戦争と同列に比較するわけにはいくまい、そう思っていたし今も思うが、見落としていたのはあの地震が一つの偉大な文化を最終的に葬ったということである。その意味で、確かに昭和の大事件だったのだ。

 そのうえに戦争とりわけ空襲。墜落した飛行機の燃えた残骸に、さらに燃料をかけて焼却するようなものだ。

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