2018年7月27日(金)
通勤中に:
選挙で投票する際、「自分の票が死票になるのを嫌って、当選しそうな候補に投票する」という心理があることを、昔どこかで教わった。事実あるのだろうが理解し難い心理である。自分が投票しなくても当選するはずの候補に投票するなら、自分の票は何も仕事をしておらず投票する必要がない。当落線上の候補に投票し、それで当選した場合にこそ達成感があるだろうに。
電車の釣り広告を眺めていて、ふと思い当たった。
競馬だ。
競馬では、勝つであろうと予想した候補(馬)に投票する(馬券を買う)のが原則、勝敗を度外視して賭けたい馬に賭けるのも自由だが、それはあくまで物好き訳アリの少数者である。「勝つものに乗る」という競馬の発想に慣れた者にとって、勝てそうもない馬に投票するなんてことは、生理的に反発が生じてできないのではあるまいか。
似ている。
違うのは、投票は無料でできること ~ ただし、選挙権というものが獲得されるまでに先人の払った夥しい犠牲が言わば先払いされており、おかげで僕らは政治劇場にタダで入場できる。だから成長しないのかもしれない。
もうひとつの違いは、選挙は結果を当てたからといって特に儲かりはしないこと ~ 勝ち馬への投票者に選択的な見返りがあるわけではなく、善政が敷かれれば全住民が等しく恩恵にあずかる。逆にとんでもない馬が勝った場合には、負の見返りが生じて持ち金はおろか全財産をムシられる危険が、全住民に生じる。暴れ馬が競馬場から駆け出して、国中に火をつけて回るようなものだが、危険な馬に「勝たせない」ことが実は案外難しい。逆投票つまり古代ギリシアの陶片追放にあたる制度があれば別だけれど。
競馬のほうが政治よりもよほどマシ、かどうかはともかく、馬券を買う感覚で選挙に臨む人が、けっこうな数で存在するに違いない。わざわざ出かけて外れ馬券を買うより、家でTV中継でも見ていようとて、足を運ばない賢明な人々が多いのもこれで腑におちる。
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仕事場にて:
家族の中で傷つく人が少なくない。もちろん、診療場面にはそういう人が多く訪れる理由があるから、世間一般の傾向が相当に拡大協調されて見えるのは間違いないが、それにしてもである。
その後の歩みは一様ではないが、原家族の中で与えられた傷つきや歪みが、新たな家族の営みを通して修復整形される姿を見ることがままある。嬉しい役得である。
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