2018年7月5日(木)
すっかり旧聞、4月下旬に高知へ往復した際の機内誌の記事である。
日本の近代化を振り返る時、お雇い外国人と呼ばれる人々の貢献が甚大である。新生の日本政府が苦しい財政をやりくりして人を求め、破格の待遇で招聘した労苦が偲ばれるが、これに応じて来日した彼らの側も総じてきわめて良い仕事をしてくれている。
不適応を起こしたり待遇に不満を言い立てたりして早々に帰ってしまった者、新興国の足もとを見ていい加減な仕事をした者など、皆無ではなかったことと邪推もするが、期待以上の貢献と薫陶を遺して永く感謝された例こそ多いのは、その後の日本の歩みが自ら証明する。
そうした実例がここにもひとつ。
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「酪農の恩人、エドウィン・ダン」
沼尻賢治
北海道開拓の黎明期、あのW.S.クラーク博士が教鞭を執った同じころ、いわゆる ”お雇い外国人”として招聘された一人にエドウィン・ダンがいた。彼こそ北海道の酪農のもう一人の恩人なのだ。
1848年(嘉永元年)、アメリカ・オハイオ州の牧場経営の家に生まれたダンはその経歴を買われ、1873年(明治6年)、日本に招かれる。3年間東京で仕事をし、1876年(明治9年)、札幌へ転勤。この年、クラークが来日し、『札幌農学校』(後の北海道大学)が開校した。
クラークが教育活動に従事したのに対し、ダンは実践的な農場、『真駒内牧牛場』の開発に当たった。当時、クラーク50歳、ダン28歳。親子ほど年齢の離れたダンをクラークは高く評価し、自分のアシスタン卜に要望したという。
真駒内牧牛場でのダンの仕事は家畜動物の飼育、飼料の栽培、食品加工技術の指導、用水路の開削など多岐にわたった。1882年(明治15年)、開拓使の廃止にともない北海道を去るまでの6年半、ダンは北海道各地に足跡を刻み、そのひとつひとつはその後の北海道の発展の礎となった。
ダンと日本の関わりは深く、日本人女性と結婚し、外交官として再来日。晚年は東京に暮らし、1931年(昭和6年)死去。享年82歳であった。
1889年(明治22年)、クラークが心血を注ぎ、ダンが尽力を惜しまなかった札幌農学校に日本で最初のホルスタイン(雄牛2頭、雌牛3頭)がアメリカから輸入された。雌牛はそれぞれ敷島、漣(さざなみ)、千鳥と命名され、1号から3号の番号が与えられた。
現在、『北海道大学農学部附属農場』(以下、北大農場)に残る牛の血統を記録した「牛籍簿」によれば、この3頭の系統の雌牛が受け継がれ、雌牛が生まれるたびに4号、5号……と与えられた番号は2017年には1289号に達している。
(後略、「翼の王国」2018年4月号より)
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祝福に満ちた美しい人生である。日本人の夫人とのあいだに子はあったろうか、日米戦争の時代を無事に生き延びただろうかと気にかかる。
こういう人物を掘り起こして書きとめるのも大事なことで、筆者の沼尻賢治氏は「ニセコをベースに道内各地の歴史や風土を取材。日常的にはハンドメイドの帽子屋を展開」と脚注にある。これまた充実、機内誌の宣伝効果はさぞ大きいことと想像する。
お雇い外国人に話を戻せば、個々の来朝者の活躍を多とするは当然として、プロジェクトを企画立案し維持運営した影の人々の功績が大である。「お雇い外国人」でひっかかってくる書籍は下記の通り多々あるが、仕掛け(人)について解説してくれているだろうか。「脇役」のそのまた縁の下の力持ちのこと、そのうちぼつぼつ眺めてみよう。
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