2015年7月18日(土)
少しだけ補足する。
(1) この話を始めたのは「自転車」がきっかけだった。
昨今の自転車の横暴は限界を超えている。見ていて感じるのは、多くの自転車操縦者が自分を「歩行者」と規定しているらしいことだ。歩行者が靴代わりに自転車を「履いている」に過ぎない。だから人並みを縫って自在に移動することが許されるし、とりたててやかましい交通法規に縛られることもない。「危険」について言うなら、「より大きな危険」である自動車・単車から身を守ることに注意が向く。自転車で出かける子どもに対して、親は「車に気をつけなさい」とは言うが、「歩行者(を傷つけないよう)に気をつけなさい」とは言わないだろう。
実際には自転車は、歩行者に対する「より大きな危険」として作用する。衝突すればケガをするのは歩行者で、実際に死亡事故も何件も起きている。脆弱なのは歩行者であって自転車ではない。自転車に乗る時、人は「より大きな危険を運用する」者として、「より大きな責任」を負う。そのことを意識せずに自由に暴走されては困るのだ。僕は最寄り駅への道筋を変えた。43年目の変更で、理由はもっぱら坂の上から降ってくる自転車が怖いからである。
(2) クマ号のことから、39年前の駒場の教室風景がよみがえった。
あの賢い発言者は、今頃どうしているだろう。法律を学ぶのがいかにも楽しそうだったから、早々に司法試験を通過して弁護士として活躍したかもしれない。あの時、この教室は彼のような学生のものだと思った。法は常識 common sense に基礎を置いている。「危険/責任」などはその典型だが、それをこうして言語化し概念化するところから複雑な制度も立ち上がるのに違いない。そうしたプロセスをあんな風に楽しむことのできる人々が、この分野を担当してくれれば良いのだ。
自分ではない。なぜかそう思ったために、こういう顛末になりましたとさ。
(3) 安保法制
むろん、そこに来る。「より大きな危険」を運用しつつあるとは、まさにこのことだ。そこに発生する「より大きな責任」をとる準備は為されているか?皆が NO を連呼するのは、その確認が全くとれないからである。それどころか、責任を問われずにすむ段取りを周到に固めているらしいこと、特別機密保護法を考えれば明らかではないか。
かくて「危険と責任の比例関係」は、自転車から国策までを貫徹する。実に良いことを教わっていたのだ。