散日拾遺

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4月6日 ピアリーが北極点に到達(1909年)

2024-04-06 13:32:42 | 日記
2024年4月6日(土)

> 1909年4月6日、アメリカの探検家ロバート・ピアリーが西洋人として初めて北極点に到達した。1898年に初挑戦してから五回目での成功であった。一行は六人だったが、うち四名は現地のエスキモーで、彼にとってらに彼らにとっては北極点は初めてではなかったと思われる。
 ピアリーは大学卒業後、政府の地理関係の仕事につき、たまたま訪れた北極圏に興味を抱いたという。1891年から四回にわたるグリーンランド探検の後、北極点を目指したがうまくはいかず、凍傷で足の指を八本失う結果になった。
 それでもピアリーは諦めることなく挑戦を続け、四度目の挑戦で北極点まで280キロの地点に到達する。その快挙に対し、ナショナル・ジオグラフィック協会が資金援助を申し出、改めて1908年7月に北極圏に向かって出発したのだ。
 翌年二月、ピアリーらは百頭以上の犬に曳かせたそりで北極点を目指し、4月6日、念願の北極点到達を果たした。
 帰国後、元は仲間であったフレデリック・クックが自分も一年前に北極点に到達したと主張し裁判になったが、結局クックの主張は退けられた。ピアリーは長くエスキモーの間で生活し、彼らの生活の方法を学んでいたことが成功に繋がったと言われている。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.102

 
Robert Edwin Peary
1856年5月6日 - 1920年2月20日

 「西洋人で初めて」は「非現地人として初めて」と言うべきところか。東洋人にも黒人にも先例はなかっただろうから。
 いずれにせよどこで勘違いしたものか、北極点一番乗りはノルウェー人ナンセンであると思い込んでいた。フリチョフ・ナンセンは北極点に到達していない。しかし、1893年から96年にかけてのフラム号による北極遠征で、極点到達に劣らぬ成果をあげている。
 8年分の燃料と6年分の食糧を独特の構造の船に積み込み、意図的に流氷に閉ざされ漂流することによって北極点に到達するというアイデアは、自然を征服するよりその力を利用しようとする素敵に独創的なものである。この計画が頓挫した後、いったんはスキーでの極点到達を窺いつつ、食糧の不足を認めて勇気をもって撤退したあたりは、冒険を排した真の探検家の面目がある。
 後には国際連盟難民高等弁務官として戦争難民や飢餓難民の救済に奔走し、「難民の父」と呼ばれてノーベル平和賞を受賞した。偉人との評価はまずもって異論のないところ。

  
左: Fridtjof Wedel-Jarlsberg Nansen
1861年10月10日 - 1930年5月13日
右:フラム号とナンセン(左から二人目)

 一方のピアリーはまったくタイプが違う。
 探検家にもいろいろあり、南極横断のフックス(⇒ 3月2日)が研究者型、ナンセンが熟慮に富んだ探検家型だとしたら、ピアリーは探検よりも冒険を好む功名心の強い野心家型であろう。
 クックとの裁判では、ピアリーが証人を買収したことが現在は分かっているという。もっとも、クックは北極点の数百 km 手前までしか到達しておらず、裁判の結果はそれで良いというのだが、ピアリーの方も北極点まで約6kmの北緯89度57分の地点をゴールと誤認したらしい。そのあたりは測量技術の問題でもあろうが、「ナビゲーションの技術を持つ者がいなかったにもかかわらず、旅程が不自然に順調であることなどから、到達そのものを疑問視する説もある」というから穏やかではない。それもこれも本人のの性格と素行が招いた結果であろう。
 一方でピアリーは、1891年から97年にかけて四次にわたるグリーンランド探検を行い、同地のイヌイットが鉄の精錬技術をもたないにもかかわらず鉄を利用している謎を解明している。イヌイットは一万年前に落下したと推測される、56トンもの巨大な隕鉄を利用していたというのである。見事な発見であるが、この隕鉄の一部をアメリカへ持ち帰り、博物館に4万ドルだか5万ドルだかで売却したというのがこの人らしい。
 どこまでもがめついピアリーであるが、冒険のために八本の足趾を失ってもひるむことなく、イヌイット女性との間に二児を儲けるほどその地に浸透していたところは並ではない。二人の子どもがその後どのような人生を送ったか、私的には興味の動くところである。


Ω



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