散日拾遺

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秀策が患った病のこと

2016-12-27 20:47:31 | 日記

2016年12月27日(火)

 ノロウィルスの講演に触発されたという訳でもないが、研究室の本棚に山本俊一著『日本コレラ史』があるのを、久方ぶりにふと手に取った。幕末の天才棋士・本因坊秀策がコレラ流行で死んだと読んだことを思い出したのである。碁の技倆ばかりでなく人柄も優れていた秀策はかいがいしく朋輩や弟子の看病にあたり、その甲斐あってか本因坊家では他に落命する者なく、ただ秀策だけが惜しい死を遂げたとも読んだ気がする。しかし真性コレラであれば、「彼だけが」では済まなかったはずとも思ったのだ。本当は何で亡くなったのか。

 この種の記録は大概の小説などより、よほど面白い。一部抜き書きしてみる。

 「安政5年6月3日(陽暦1858年7月13日)には長崎出島、市内ともに吐瀉病が多発している。既に6月2日だけで20-30人の患者が発生しており、また米国蒸気船ミシシッピー号においても同様の胃腸病が多発しているので、これは流行性のものと考えられる。この病気は清国の海岸都市でも流行し、毎日多数の死者があると聞いている。長崎出島にいるヨーロッパ人はこの下痢症が変症して真性コレラにならないように努めている。」(P.16)

 例のオランダ人ポンペから長崎奉行にあてた報告書の概略である。「変症」という概念が当時あったのかな。別の下痢性疾患が真性コレラに「変わる」とは考えにくく、このあたりが近代細菌病学確立前夜の状況を示しているかもしれない。イタリア人医師フィリポ・パチーニがコレラ菌を発見したのは1854年だが、ドイツ人医師ロベルト・コッホがコレラの病原体としてコレラ菌を同定したのは1884年であり、ポンペの報告書はなお「コッホ以前」なのだ。さらに後年のポンペの回想として以下の記述が引かれている。

 「1858年7月(陽暦)に米艦ミシシッピー号が清国から日本にコレラを持ち込んだ。1822年以来、日本ではこの恐るべき疾病についてはまったく聞くところがなかったが、今回はたくさんの犠牲者が出た。市民はこのような病気に見舞われてまったく意気消沈した。彼らは、この原因は日本を外国に開放したからだといって、市民のわれわれ外国人に対する考えは変わり、ときには、はなはだわれわれを敵視するようにさえなった。私はこの病気を防止するため、あらゆる予防策を講じた。幕府も衛生処置を講ずることとなり、異常な努力をもって実行に移されたことを述べておかねばならない(こんなときには専制政治は大きな価値を発揮する)。私は医師たちにコレラの特徴と療法を教え、私自身もできる限りの援助をした。」(P.16-7)

 という具合で、安政年間(1854-60)にはコレラが数次にわたる流行を見た。ペリー以来渡航頻繁となったアメリカ船によって持ち込まれていることなど、時代を鮮やかに反映しているだろう。ところで秀策(1829-62)が没したのは文久2年だから、安政の大流行はいちおう終息した後のことである。「余波」に関する部分が、おあつらえ向きにこれに触れている。

 「文化2年(1862年・・・文化は原著の誤り、文久が正しい)夏には麻疹大流行の後にコレラの流行が起こったと言われる。すなわち、八月頃にコレラ様の急性病に罹るものが多くあった。これは老幼を問わず即時に発病し、吐瀉が激しく数時間のうちに死亡して投薬する暇がなかった。死後全身赤変するものが多く、患者の中には麻疹の後に食養生を怠って再びこの病気に罹る者もあった。また一種の霍乱(註:日射病)もこれに混在し、風呂屋、床屋に来る客がいなくなったという。ただしこれが真性コレラであったかどうかについては、多少疑問が残る。」(P.26)

 秀策の命日は文久2年8月10日(1862年9月3日)だから、上記の「流行」に依るものと見てほぼ間違いなかろう。なぜかこの下りは流行したのが日本のどこだか明示していないが、すぐ前の部分に安政年間の江戸・甲府・京都・仙台・大阪などの流行状況がつぶさに書かれており、どこで何が流行ってももはや不思議のない時代になっている。開国とは、伝染病に対して門戸を開くことでもある。

 最後に残る問題は、この流行病がなぜどのような意味で「コレラかどうか疑問が残る」かである。ほとんど言いがかりのような僕の問に、思いがけずエビデンスが呼応する気配があるが、残念ながらこの本にはそれ以上の記載がない。引きつづき調査を要す、ですか。

 

Ω

 

 


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