2024年4月13日(土)
> 1598年4月13日、フランス国王アンリ四世は、フランスの港町ナントで勅令を発布した。この勅令は信教の自由を成文化し、プロテスタントにも市民権や礼拝の権利を認めるものだった。
もともとカトリックの国であったフランスでは、当時新たにプロテスタントの勢力が台頭していた。二つの勢力の間に激しい抗争が頻発し、フランス王室は事態の収拾のために、プロテスタントのナヴァル王アンリと、カトリックの国王シャルル九世の妹を結婚させた。パリで行われたその婚礼の時、新たな衝突が起きた。婚礼の祝いのためにパリを訪れたプロテスタントの人々が虐殺されたのである。
この「サン・バルテルミの虐殺」をきっかけにして、王位継承者だったアンリ三世は暗殺され、ナヴァル王アンリはアンリ四世としてフランス国王に即位することになる。しかし、その時に彼は「カトリックに改宗するか、命を奪われるか」という選択を迫られるのだ。
結局ナヴァル王アンリはカトリックに改宗し、国王になる。そして、プロテスタントの権利を守るためにナントの勅令を発表したのである。この勅令は、後にルイ十四世に撤回されるまで、プロテスタントの権利を守り続けた。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.109
Henri IV(顯理四世)
1553年12月13日 - 1610年5月14日
事情はきわめて錯綜しており、理解不能に近い。少し情報を足しながら時系列に沿って追ってみる。
1572年、サン・バルテルミの虐殺。ナヴァラ王アンリ、カトリックに改宗させられたうえ、宮廷に幽閉される。
1576年、宮廷脱出に何度か失敗した後、この年2月の狩猟大会中に逃走に成功。6月プロテスタントに再改宗し、ユグノー陣営の盟主となる。
1589年、アンリ三世がドミニコ会士によって暗殺さる。ヴァロア朝断絶。ナヴァラ王アンリ、フランス国王アンリ四世として即位しブルボン朝を開く。
1593年、カトリックの本拠であるパリに入るため、アンリ四世カトリックに再々改宗。
1598年、ナントの勅令を発す。同勅令はカトリックがフランスの国家的宗教であると宣言しつつ、プロテスタントに多くの制約付きながら信仰の自由を認め、フランスにおける宗教戦争の終息を図ったものであった。
ここでのアンリ四世の功績は、フランスおよびヨーロッパにおける「寛容 tolerance」への貴重な一歩を記したというに尽きる。この言葉が日本人に連想させる、おっとりした受動的な許容ではない。厳しいせめぎ合いの中で強い意志をもってぎりぎりの自制を働かす、そのような意味での「寛容」である。ヨーロッパが苦難の末に見出した、「人権」と並ぶ精神的至宝と言える。
そのアンリ四世が、在位中から現代に至るまでフランス国民の間で最も人気の高い王の一人であることに留意したい。大アンリ(Henri le Grand)、良王アンリ(le bon roi Henri)と呼ばれる所以である。
同じ時期、極東の日本国で江戸幕府が誕生しようとしていた。こちらはその後三百年近くにわたって、世界史上まれに見る安定と文化的成熟を実現したが、これとひきかえに外なるものに対する寛容の欠落と、被治者に対する異議申し立ての禁圧とが領土の隅々まで貫徹することになった。そのツケを当分の間、払い続けねばならない仕儀である。
アンリ四世はユグノー戦争によって疲弊した国家の再建を行い、とりわけ民力の養いに心を配ったことで「良王」の呼び名を得たが、1610年に刺されて落命した。下手人は「狂信的なカトリック信者」とあるが、フランソワ・ラヴァイヤックという30代のその男は、信仰が極端であったというよりも一個の精神障害者であったように記録からは読める。ノートルダム大聖堂前で八つ裂きにされたうえ群衆によって遺体が切り刻まれ、両親は国外追放、親族は姓を変えさせられたというほどに民衆の憎悪は深かったが、今日的にいえば責任能力があったかどうか疑わしい。
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