2024年4月4日(木)
> 1954年4月4日、20世紀の最も偉大な指揮者の一人アルトゥーロ・トスカニーニは、演奏中に暗譜しているはずの楽譜を思い出せなくなって演奏を中断し、これを最後に現役を引退した。
1867年にイタリアのパルマに生まれたトスカニーニは、パルマ音楽院でチェロと作曲を学び、1886年にロッシ・オペラ団の南米公演にチェリストとして参加した。その公演中に、指揮者トスカニーニを生むハプニングが起きる。リオ・デ・ジャネイロで『アイーダ』を上演した時、代理の指揮者が必要になるアクシデントが生じたのである。トスカニーニは強度の近眼で、常にスコアを暗譜していた。このことを知っていた団員たちは、彼に指揮をするよう求め、トスカニーニは初めてタクトを振ったのだ。トスカニー指揮の演奏は大成功を収めた。この時、トスカニーニわずか19歳であった。
1937年、トスカニーニはファシズムの台頭に強く抗議し、生活の場をアメリカに移す。その後、一度は引退を表明するが復帰を望む声が高く、彼のためにNBC交響楽団が創立され、この日引退するまで定期演奏会を指揮し続けた。トスカニーニの指揮はすべての演奏を暗譜で行い、楽譜に忠実であることで知られている。楽譜が思い出せなくなった時、彼は即座に引退を決心したのである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.100
Arturo Toscanini
1867年3月25日 - 1957年1月16日
写真を見てチャップリン(1889-1977)を連想した。才能の豊かさ、感情の起伏の激しさ、女性好き、そしてファシズムとの対決姿勢まで、比べてみたいところがいろいろとある。
「強度の近眼だったので自分のパートを暗譜していた」というのならさほどの不思議もないが、皆が指揮者に推したということは、すべてのパートのスコアを覚えていたということで、これは確かにただごとではない。ハプニング以前から自分のパートだけでなく、オーケストレーションに強い関心をもっていた証拠である。
パルマ音楽院では作曲科の学生であったのが、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を観覧して作曲家になることを断念し、チェロ科に移ったとの逸話が記されている。作曲家たらんとした志が、指揮に形を変えて開花したのだ。
デビューばかりでなく、引退もまた単なるハプニングの所産ではなかったらしい。引退は1954年4月4日の演奏会以前に決断されており、用意の手紙が演奏会終了直後に公開された。その時トスカニーニは満87歳、さしもの記憶に衰えのあることを自覚していたのであろう。
"... the sad time has come when I must reluctantly lay aside my baton and say goodbye to my orchestra, ...."
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