プリミティヴクール

シーカヤック海洋冒険家で、アイランドストリーム代表である、平田 毅(ひらた つよし)のブログ。海、自然、旅の話満載。

毎日新聞での連載記事 湯浅湾・鷹島

2017-10-09 18:31:55 | アート・文化

 毎日新聞にて「シーカヤックで再発見 紀州の海」というテーマで月イチ連載中の最新記事は先日10月5日に(「湯浅湾・黒島」について)、掲載していただきましたが、ふと考えると前回9月7日に掲載の「湯浅湾・鷹島」の記事をこちらに載せるのを忘れていましたので先にその記事の写真を載せておきます(黒島の記事は近日中にアップします)。ぜひ、写真クリックしてさらにズームしてご覧下さい。

 と、毎回記事の写真を載せてますが、いつも読みにくいと言われますので、元原稿も合わせて下記にコピペして張っておきます。面白いのでぜひぜひお読み下さい&よろしければフェイスブックなどでシェアしてください。 
 
 【古代航海の「ハブ港」 クジラのような形 無人島・鷹島】
 南北両方向から見ると漫画のクジラのような形をした無人島・鷹島には美しい浜が2カ所ある。いずれも広川河口沖の防波堤完成以来、山からの砂の供給が減少し、潮流が変わった影響もあって、痩せたゴロタ石の浜になっている。漂着ゴミも多い。海岸線を自在にゆくシーカヤッカーにとって全国どこでも出くわす現象だが、この島では特にそれが目立つ。
 南東側の弓なりに広がる入江には現在、海上釣り堀が設置されている。波風を遮断する地形で、周囲がどんなに荒れても、この入江だけは穏やかだからだ。それは古代から変わることなく、縄文時代前期の50006000年前には、集落が存在した。住人たちはここを拠点に南は伊豆諸島や八丈島、北は東北地方あたりにまで長距離航海し交易する「海洋民」だったようだ。この島でのみ作られた「鷹島式土器」(和歌山市の「風土記の丘」資料館に展示)が、全国各地で単体として出土するのがその証拠である。
 その際に使われたのが、シーカヤックと同様に手漕ぎの「丸木舟」だった。もちろん当時はコンパスも海図もない。五感を総動員して海と対話し、波風を読んで日本列島を縦横無尽に渡っていったのだ。
 信じ難いが、荒唐無稽な話ではない。私自身、2000年~2001年にシーカヤックで湯浅湾から太平洋を北上し、津軽海峡を渡って北海道一周、そして日本海を南下して九州、四国の外周を回りまた湯浅湾に戻るという、日本一周航海をした。
 長い人類の歴史と共に寄り添ってきたカヌー、カヤックは、理にかなった完成度の高い乗り物で、それくらいの航海もできるのである。
 空からの目線で見ると、鷹島から南下するとすぐ太平洋に出られることがわかる、北上すれば瀬戸内海を経由して、日本海や東シナ海にまで足を伸ばせる。長距離航海をする交易の民にとってこの島は、全国に開けた「ハブ港」だったのではないだろうか。
 その後、サハリンにまで商路を開いた豪商や、オーストラリアやハワイ、アメリカ大陸にまで生活圏を広げた漁民に代表されるように、紀州の海洋民は地球規模のスケール感を持って国内外へと繰り出していった。和歌山は、近世まで日本の海文化の中心地だったのだ。鷹島縄文人はその始祖といえるだろう。
 「熊野古道」に比べると忘れられた存在の「熊野海道」だか、そこにはスケール大きく、豊かな文化が眠っている。世の中が閉塞感に覆われている昨今、今一度そこに目を向けてみる価値がある。


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