さて、
ここで元の祖父のボケていたという話に戻る。
ある日のこと、もう私は小学校の高学年か、中学にはまだ上がっていなかったと思うのだが、祖母の死後かなり経ち、仏間には祖父だけという生活にも慣れた頃、気候の良い頃だったと思う。
私は外出から帰り、洗面所で手など洗っていた。日差しや水が気持ちよかった。
台所は明るく、庭から入る午後の日差しに溢れていた。
「やあ、帰ってきたね。」
そんな声に振り向くと、伯父が傍に立っていた。
普段めったに家には来ない、珍しくにこやかな伯父の様子に驚いた。そんな私をよそに、伯父は話し続けた。
「父さんから連絡があって、家に良い木が生えたから見に来いというので、見に来たんです。」
との事だった。
良い木?何の事だろうと私は思ったが、それはどうも和シュロの事であったらしい。
一昨年前、近くの城跡で土の中から見つけた球根を庭に埋めて置いたところ、昨年芽が出てぐんぐん成長し、今は50センチを超え、見事に特徴のあるばらばらと細い葉を広げた柄が、何本か木の先端から生い出る状態になっていた。
「ビロウの事ですか?」
と、私は図鑑で調べて自分なりに見当を付けた植物名を言った。
「シュロだよ」と、伯父はやや渋い顔をしたが、私は成長したこの木の姿を知らなかったので、当時幼木の形から図鑑の絵で近いものを選ぶ事しかできなかった。
「ビロウです、図鑑で調べましたから。」
そんなやり取りを伯父としながら、なぜこの木が良い木なのか疑問に思ったものだった。
伯父とのやり取りはさておいて、珍しく伯父は爽やかでにこやかに人当たりがよかった。いつもほぼ真面目な顔しか見たことがなかった私は、何があったのかと怪訝な気がしたが、親戚の伯父の機嫌の良い様子を見ることができて、姪としては好ましい事と思った。当時、それが礼儀だろうと思っていた。
どうも、祖父が庭の木を見て気に入り、叔父に見に来るよう、近所の伯母に電話させたようだった。伯父も良い木だといって、この木が庭に生え成長したことを気に入った風であった。
そしてにこやかなまま祖父の部屋へと戻って行った。
暫くしてまた台所に取って返して来ると、「私はこれで帰るから」と告げ、すぐに仏間へと戻り、そのまま帰宅したようだった。
私も伯父とあいなしに仏間に向かったが、部屋に入るともう伯父の姿はなく、祖父一人が布団に座っていた。
祖父も晴れ晴れと穏やかな表情で、何だか嬉しそうだった。
「あれは、伯父さんはどこへ行った?」
と、祖父が言うので、私は
「帰られたよ。」
と答えたのだが、祖父はびっくりしたようで、帰るはずがないから何処にいるか探してくれという。
私は家内を一通り探索してみたものの、やはり伯父の姿はなく、音もなく忽然と家から消えてしまった伯父の素早さに、やはり帰られたのだと祖父に報告したものだった。
その時の祖父の様子と来たら、見るも哀れな落胆ぶりであった。
「帰ったのか。」
「帰ったのか、この家以外にあの子が帰る家などないのに…。」
そう呟いてがっくりと肩を落とす祖父の姿に、私は祖父の、伯父に対する一方ならぬ愛情の深さを感じたものだった。
父親にするとやはり上の男の子は可愛いのだろう。
そう祖父の心情を推し量たりした。そして、父や、私達家族の事を考えないではいられなかった。