Jun日記(さと さとみの世界)

趣味の日記&作品のブログ

竹馬の友、7

2016-12-01 18:40:32 | 日記

 「いくら行かない方がいいと言われたって、その通りにしなくちゃいけない事も無いよ。」

と、母が言い出すので私はびっくりしてしまいました。

人がしない方がいいと言うからには、しない方がいいに決まっているじゃないと私は言います。

母はそんな事も無いんだよと言います。まだ分からないかもしれないけれど、

きっとあっちにお前に見せたくない面白い物があるからなんだと言うのです。

『面白い物?』

雨で酷い事になっているという角の向こうに、面白い物なんてあるのでしょうか?

私には想像もつきません。

やはり常識的に考えて酷い事になっていると思うので、子供の私は帰る事にします。

 家へ帰ろうとすると、尚も母は私を呼び止めて角の向こうへ行こうと誘います。

帰ると言うと、母も反対に向こうへ行こうと頑張ります。

私にすると、とても困ってしまいました。母1人で行って来ればいいじゃないとも言ったのですが、

母は私が一緒じゃないと行かないと言い、あくまでも私を一緒に連れて行って見て来ようとするのでした。

通り掛の人にさえ、この子が行きたがらないから、何とか行くように言ってくれないかと頼む始末です。

 幼心にも母に対して呆れていると、母はきっと面白いものが見れるから、

お家が水に浸かっているのが見れるのは今だけだよと私を促すのでした。

 え、お家が水に浸かっている?

声の表現からすると家が水浴びをしていて楽しそうな風景が浮かんで来ました。

お家が水浴びか、今しか見れないのか。

私にはそんな事が急にとても魅力的に思えて来ました。

 少しだけ見て、すぐ帰って来ればいいじゃないの、行ける所迄行って帰ればいいから。

角を曲がれば直ぐに行けなくなるだろうし、直ぐに帰る事になるだろうからと、

差し出された母の手にとうとう手をつないだ私は

「直ぐに帰ろうね。」

と言って歩き出してしまいました。

 角を曲がると、最初は人波で、行く人戻る人に行き合い私の視界は利きませんでした。

水も私の長靴の背丈よりは下でしたから、特にどうという事も無く進んで行けました。

 こんな所に小さい子を連れて来ちゃだめだ、引き返して、

そんな事を言う人もいましたが、母はどう説明したのかそういう人達を搔い潜って進んで行きます。

私はきょろきょろと見回して見ますが、大人の影になって周囲の状況は全くと言ってよい程分かりませんでした。

黙って母の後に付いて行くと、その内にほらっと、母が自分の前に私を引っ張り出してくれます。

 母の前に出てみると視界は開け、そこは目の届く限り水が先へと広がっていました。

私の足元からずーっと深そうな濁り水が伸びていました。此処からもう先にはいけません。

私は道の一番先へ辿り着いたのでした。

 私はこの道の先の川がどの辺りを流れているかもう知っていました。

この場所からあの川までこの水が続いているのだと思うと、本当に静かな濁った海が目の前にあるようでした。

雨は小降りになりまだ降り継いでいましたが、水面はそれほど波立たずに静寂を保っていました。

 ほら家が水の中にあるだろうと母に言われて、本当に、家が水に浸かっていると、

その見た事も無い不思議なおとぎ話のような世界に、

夢でなくてもこんな光景が見られるのだと、私は目をぱちくりしてしまいました。

本当に家が水浴びをしている様だと思いました。グレイな背景に広がる静かな湖と家の世界です。

 不思議な風景に見とれていると、次に私に起こった変化は耳に入って来る人の声でした。

お父さんは?お祖父ちゃんは?

何ちゃんは?大丈夫?皆いた?

等、その内こんな事になるなんて、と、女の人の啜り鳴く声も聞こえてきました。

 声が耳に入って来るようになると、私は音のする方向に顔を向けて、周囲の人々の様子に目が届くようになりました。

皆一様に顔を曇らせて、悲しい顔、苦しい顔、泣いている人、何も言えず呆然自失、

身動きせずに前を見つめて立ち竦んでいる人もいました。

顔を強張らせて真剣な眼差しで遥かな水の面を見つめる人もいて、誰も笑っている人などいません。

 私はこれらの人々の声や顔、特に水に一番近い場所で思い詰めたように真剣な眼差しで川の方向を一心不乱に見つめている人の表情や様子に打たれました。

おとぎ話の世界、お家が水に浸かっている、など、そんな事を言ってはいけない場面だという事を悟りました。

『Lちゃんの言う通りだ!』

私は来てはいけなかったんだ。見ない方がよかったのだと悟りました。

 こんなに酷く嘆き悲しんでいる人々を、私は生まれて初めて直に間近で見たのです。

この人々の苦しみを傍観するという、物見高い野次馬のような事を自分が此処でしている様で、

この可愛そうな人達の顔を、この人は不幸な人なんだなと見てはいけない、

見られる事がこの人達にはどんなに辛いだろうという事に気付くと、

そんな事をしてはいけないと悟りました。

 私は母を探すと、母の手を取り、帰ろう、もう帰ろう、直ぐにここから帰ろうと引っ張りました。

母はもう少しと浸水した家々を見ていて帰りたがりませんでしたが、

それでは私は一人で帰るからと急いで歩き出したので、母もその後すぐに追いついて来ました。

 私は出来るなら駆け出して、一刻も早くこの悲惨な場所、

途方に暮れる人々、見られたくないだろう人々から離れたかったのですが、

長靴では思うように歩が進まない物でした。視界が滲み、涙が溢れそうで、私は頻りに瞬きしました。

ヒックと、嗚咽になりそうで、泣くのを堪えるために立ち止まって目を閉じ、ぐぐぐと堪えました。

感無量でした。

私があの人達を気の毒に思って泣くと、あの人達がもっと不幸になるようで、

必死で自分の中の悲しみと戦っていました。

 暫くして涙や声が落ち着くと、私はよろよろと歩き出しました。上り坂です。

雨が小降りになって来たせいか、道は来た時より水が無く、落ち着いた風情になり、

濡れた黒々としたアスファルトは歩き易くなっていました。雨は止んでいたかもしれません。