テーブル席の客は、誰も彼の声に反応しようとして来ない。おやっと店主は思った。今お内儀が反論していた様子だったが、旦那さんの方は言い負かさないでいいのかい。そう思う。
この店の店主で有る彼は、ちらっと横目で客席の様子を窺い見た。男性客、その彼の向かい側に座る女性客も、共に難しい表情を浮かべ深刻な様子に見えた。大人の男女2人の話し合いは山場に入り、如何やら折半の付かぬ様子で、今や暗礁にでも乗り上げたらしい。
『難しい所なんだな。』
彼は思った。
彼にしても客商売、客のプライバシーを尊重しつつ、そうかと言ってそれなりに客の相手もしなければならない。客に聞いていたのと言われる時もあれば、聞いていなかったのかと言われる場合もある。客もそれぞれで、しかもその時、その場に応じて可成り身勝手だった。
『こっちだって聞きたくは無いけど…。』
彼は思う。店の客の相手もしないと行けないからなぁ。そこで彼はそれまで聞いている様で聞か無い、見ている様で見ていないという態度でいた。彼は厨房の中にいて、自分の目の端に映る店内の客達や、自分の耳に届いて来る客の声で、彼の脳裏に残った言葉だけを寄せ集めると店内の客達の話の筋を構築していた。
男同士という物でもなく、大旦那と若旦那の嫁、今の店内のこう言った場合、彼は立場の強い大旦那である男客に合わせておいた方が後々無難に過ぎた。彼はそこで男性客に合わせると、時折加勢の言葉を入れて合いの手としていた。
『何だろう?。』
客の様子が如何も妙だと彼は感じた。女性客が彼に対して不満に思うのは分かる。が、自分が味方している男性客の方も、何だか自分に対してよく思っていない気配、客である彼の不愉快な雰囲気も伝わって来るのだ。
厨房内の彼はここ迄、客の深刻な話の間、彼なりに料理の仕込みをしてその場での間を取っていたのだが、彼はその仕込みの動きを止めた。手ぬぐいでそれと無く手を拭くと、彼は頃合いを見て自分の手元ばかりに向けていた彼の顔を上げた。そうして思い切って店内に自分の体の正面を向けると、彼の視線を客達のテーブルへと確り向け、客達の様子注視した。
相対する男女の客はというと、自分の予想通り深刻そうに彼の目には見えた。お互いに難しい顔で、互いに俯き加減で対している。男性はテーブルに肩肘をついてその手を額にやった。『やっぱり話は難しい局面で、今旦那の方が押されてるんだな。』彼は見て取った。
女性客の方は、と、彼が視線を注ぐと、渋い顔には違いないが、男性客よりは余裕がありそうに見えた。
『おや、口元に笑みが溢れた。』
自分に優位になる様な事を言ったんだろうな、大方手切れ金の上乗せでもしたんだろう。彼は考えた。
「お内儀、その金額で手を打ったら如何です。」
それでも大枚でしょう。彼は彼なりに自分の店の男性客に加勢した。彼の目に映る女性客に因果を含める様に言うと、彼なりの取りなしの言葉を掛けた。
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