「若奥さん、大旦那さんがおいでですよ。」
大丈夫でさぁ、大旦那さんが何とかなさいますよ。彼女の声に気付いた店主が慰める様に彼女に声を掛けた。そこへ、ジリリリ…と、電話が入った。店主は電話の置かれた通路へと向かうと、呼び出し音の鳴り響いていた電話から受話器を取った。もしもし…、彼は話し出した。いえいえ、お礼には及びませんや、旦那さん。それより、例の事で問題がありやしたようで…。
さて、と、彼女は夫の実家に行く頃合いを読む事に迷っていた。惨事があったと聞いていた義弟四郎の子供も元気だと言う事だ、いっそこの儘何事もなかった様に自分達の家に帰ろうかとも思う。だが、あの子に言った手前、やはり夫の実家には顔を出すべきだろう。彼女はそう考えるとあれこれと思い惑っていた。すると、思い余ってふと往来に目を遣った彼女の瞳に、ひょいっと黒っぽい影が映った。
それは直ぐに人の形になり、色付いたと彼女が感じる内にも早々に、往来に面した正面入り口にその人物が姿を現した。彼女は誰だろうとその人物の顔を確認した。そうして直ぐにそれが自分の舅であるとみて取れた。彼女は「ああ、お義父さん。」と呟く様に彼に声を掛けた。
「戻ったんだってね。」
電話で聞いたよと、彼は自分の息子の嫁である彼女に朗らかに声を掛けた。電話?、彼女は不思議に思ったが、ああと、先程から店内に数回掛かっていた電話の中に、自分の義父からの物もあったのだと合点した。
「道の途中で一郎に会ったから、智は無事だと伝えて仕事に帰した。」
そう彼は皆に向かって快活に話して聞かせた。そうして食堂の店主に向い
「御亭主、有難う。とても役に立ったよ。」
と声をかけると、あの話だよと彼は意味有り気に店の主に目で合図を送った。その後彼は嫁や孫のいるテーブルに腰を据えると、「お前達も家に帰ったら如何だい。」と声を掛けた。
ここにいても仕様が無いだろう。薫風溢れる戸外を極めて活動的に歩いて来た彼は、眩い様な生気に溢れ生き生きとして輝いてみえた。彼がにこやかな笑顔を嫁に向け帰宅を勧めると、嫁は反対に顔を曇らせた。
「あの子に、」
三郎さんの下の子に、あの子の兄さんの事を如何にかすると約束した様になっている物ですからと、彼女はテーブルの上に組んだ自分の指に視線を落とした。ああ、それね。ハッとした顔付きで舅は口にした。彼は物思う表情に変わった。「その事なら、私の方で何とかしよう。何とかなると思うよ。」と、彼は曖昧に目の前にいる嫁に言いながら、あれ、あれ、そうね、そうだったと、次に続く言葉を探して彼は戸惑った。ちらっと店主を横目で見たりする。別の件で元気が無いのかと、そう思っていたんでね。彼は当てが外れた様子になると声にも元気が無くなった。
すると、そんな舅の挙動に、嫁である彼女は不審な物を感じた。彼女も厨房の所にいる店主に徐に目を向けてみる。しかし、こちらに背を向けた彼の顔色迄は彼女に見えなかった。何かあるのかしら?、義父と店主の間に何か有るのかと彼女は首を捻った。
と、厨房横の黒い電話が目に入った彼女は、ハッと閃いた。さっきから掛かってきた電話は、そうか、全て舅からの物だったのだ。店主がこちらの様子を逐一舅に伝えていたのだ。それで…。彼女は合点した。こうも都合よく、タイミングよく、如何にも元気な舅が店に姿を現したのだ、と。