気分転換に開いた本(加藤文三著『昭和史歳時記』)に、
元禄三年の秋、大津の義仲寺を草庵としていた芭蕉は、堅田に船で出た。
芭蕉の手紙によれば、さんざん風邪をひいて「蜑(あま)のとま屋に旅寝を侘
て、風流さまざまの事共に御座候」という。そのときの作、
病雁の夜さむに落て旅ねかな
(略) 病む芭蕉の侘びしさをよく象徴している。
と、ありました。
そのあと、加藤氏は宮沢賢治が「雨ニモマケズ」と手帳に書きつけたのが、
1931年11月3日のことであると記し、満州事変が始まったこの年の秋は東
北は凶作で「サムサノナツハオロオロアルキ」という詩の現実性がある、と記
しています。農業技術師としての賢治は奔放し上京した宿で発熱、その病床
で書かれたのが「雨ニモマケズ」の詩であった、と。
賢治に「雁の童子」という童話があり、鉄砲にうたれた雁が悲しい叫びととも
に落ちていく、その雁のように私も落ちなければならないのか……。この「病む
雁」が永眠したのが1934年9月21日38歳でした。
破壊された大川小学校の校舎の一部に卒業生が描いた宮沢賢治の像と
「世界が全体に幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない……」の言葉
が残されていました。