重症心身障害者、それもかなり高齢の方を目の前にして、50年60年とい
うこの人の人生は、何だったのだろうと思うのです。この人(達)は一度でも
生産の場に立ったことがあるだろうか、無い、にもかかわらずこの年齢まで
生きてこれたことの意味はなにか、と。
下記は「横浜市重症心身障害児・者を守る会」のHPにあった文章の一部
です。
「重症児者は意思表示ができないように見られる。けれども厳しく生きる中で、
可能性を伸ばし・優しさ・温もり・愛情を感じて表す笑顔には人の心を動かす
力がある。 ある登校拒否の生徒が重症児者と向き合うことで立ち直ったという。
その生きる姿は、かかわる多くの方々に活力と感動を与える不思議な存在で
ある。支えられる人が人を支える、 これが重症児者の生産性(自立)ということ
ではなかろうか。」
一切の夾雑物のない「いのちそのもの」としての存在、それも野生動物の世
界では存在しえない人間社会だからこそ在り得る者として私の前に在るのです。
「棄老」を掟としたような共同体では存在し得なかったでしょう。 「障害が重くて
社会の役に立たない者には国の予算は使えません」(『重い障害を生きるという
こと』・岩波新書P138)との発言にくじけず、親として医師として介護者として、施
設を支える者として運動を続けてきた結果として在るのです。
この人たちの存在は、「人間というのはどのような存在なのか、どのような生き
ものなのかということ、さらには社会の在りようにも広がっていくと思う」(『重い障
害を生きるということ』、「はじめに」より)