昭和も初めの頃の話として、山下さんの体験談。
≪やっと物心のついた時分の記憶だが、私の生まれた三陸町(岩手県)旧綾里村
の石浜で、ある日、上を下への大騒ぎが持ち上がった。天気予報を語るラジオとい
うものが初めてお目見得するという日の事である。
(深井戸に錨を下しラジオのアースとし、大漁旗をあげる竹竿でアンテナを立てて)
「何でもなむし、あしたは晴だどが、それも北だどが、ちゃんと前(めえ)の日に、ピ
タリと当でるだずがら、たまげだもんなむし」
「もうはあ。〇〇船頭の日和見も、お役ご免だなむし」
(こうして村の二十数軒が「大西家」に集ってラジオというものを囲みます)
「先生、どこがら言うんででごゎんせ」
「それ、その箱だ、そこから天気予報を語るんだ」
「まだ語んねぇなむし」
「すこしまあ黙ってろ。こんなにやかましくちゃ、語りたくても、語れないだろうが」≫
(先生とは20年ほど前に村の小学校の教員をしていて「大西家」に下宿し、今では
東京で市議会議員になって、出世の証しに田舎の連中にラジオを聞かせ天気予報
で吃驚させようとやって来た人です。)
しかし、≪折角持ってきたラジオではあったが、愛宕山の放送局が目の前にある東京
と違って、満足な声が出るわけがない。結局、ガーガー、キーキーで、時折、ごじゃごじ
ゃ人の喚くような声はしたが、肝心の天気予報らしいものは聞けずに夜は更けてしまっ
た≫ と書かれています。
≪だが、(と続きます)昭和も十二、三年頃になると、そのラジオも次第に普及しはじめ
た。 (そして山下さんの父親の) 甚之助船頭も初めは 「ラジオの予報なんちゅうもんは
……」 などと儚い抵抗をしていたが、そのうち「天気予報は何と語った」、「うん、それな
ら明日は鮑の口を開けてもよがんべぇ」、「何、台風だと、そりゃ舟を引き揚げろ」と、全
面的にその軍門に降るようになった。≫ そうです。
≪こうして漁師は漁師なりに、農家は農家なりに、都会人は都会人なりに、ラジオや新
聞、そして後にはテレビによる天気予報が、空気や水のようになくてはならない存在と
なった。≫わけです。
長くなりましたが、今はまさに空気・水と同じ当たり前の天気予報が、人々の生活に入
り込んで来た頃のことを少し振り返っておきました。