阪神大震災:犠牲者名刻む銘板 新たに13人追加
2013年11月18日(月)07:21 ≪毎日新聞≫
阪神大震災(1995年1月17日)の犠牲者名を刻んだ神戸市中央区の「慰霊と復興のモニュメント」の銘板に17日、新たに13人の名前が追加された。その一人、井村喜一(よしかず)さん(当時59歳)は、震災死した妻道代さん(同55歳)を守れなかった自責の念から初盆の後、命を絶った。娘姉妹が「2人を一緒に」と銘板掲示を申請した。
喜一さんは、倒壊した同市須磨区の自宅から救出されたが、隣室の妻は亡くなった。勤務先も被災して失業した喜一さんは、「100円ショップ」を始めようと店舗付き2階建て住宅を借りて移り住み、開店を1週間後に控えた95年8月下旬に自ら命を絶った。
「ぽっかり開いた穴は、お前たちでは埋められへん」。喜一さんは生前、次女の設楽(しだら)久美さん(44)=同市垂水区=に漏らしたことがあった。喜一さんはがれきの中で、段ボールの切れ端に「道代を助けられなくて、ごめんなさい」と書いていた。久美さんは「自分だけが助かり、責め続けていたんでしょう」と話す。
娘たちも父を救えず、自分を責め続け、長い間、申請用紙に父の亡くなった状況を書けずにいた。今年1月、モニュメント前での追悼行事に初めて参列して母の銘板を見た久美さんが、「父の生きた証しを残したい」と申請した。姉の井村清美さん(49)=垂水区=と父の銘板を掲げた後、少し離れた母の銘板を見上げ「私たちも少しだけ前に進めた」と話した。【田中将隆、桜井由紀治、岡奈津希】
「本州縦断・架空の旅」で神戸市長田区に着いたら、大震災のことに触れる予定でしたが、それをぬかして歩いて来てしまいました。今日gooニュースに上記の新聞記事が紹介されてきました。
あと二ヶ月で19年になろうとしています。当地の人々が様々な物心ともどもの傷を抱えながら生きて来られたこと、その一つとして読むことが出来ます。それは国民的惨事として忘れてはならないこと、まして一時でも支援活動に従事した者にそのことが要求されることでした。
振りかえってみると、日々の新聞の死亡者名簿を見ていて、その高齢者の多いことに驚いていました。60代70、80代の方々が大半以上を占めています。 そのわけを知りたいと思っていたところ、私の勤めていた業者団体が現地の団体からの支援要請に応えることになり、それならば是非と、向かうことになりました。
2月上旬の五日ほどの短期間でしたが、ひと言でいうと 「聞くと見るとは大違い」の言葉で言い表す実地体験、五感で感じ取ることの大切さです。テレビで見新聞で読み「大変なことが起きている」 の思いは当然ですが、感覚的には日常のままです。しかし、崩壊した街のなかにいるうちに、偶にまっすぐに建っているビルなどあると、「おかしいな」と感じていることに気付きます。傾いたり、崩れたりしているのがビルというもので、まっすぐ建っている方が「異常」に見えてくる、感覚の変化です。 これは報道に接しているだけでは至らない感覚の変化だと思いました。
正しい判断のためには、問題発生の現地を知らなければならない、あわせて現地にとらわれていてはならない、というような事を知り、知るとは知識としてだけでなく感覚としても理解することだ、と思いました。
高齢者に犠牲が多かったのは、家のなかでの寝起きを一階で主としていたこと、それは何かあった場合、直ぐに外へ出られることを考えての配慮からでした。 その何かに地震が入っていなかったわけです。 地震といえば関東の問題で関西には地震はない、という理解が浸透していたのでした。
1955年1月17日と2011年3月11日、この二つを現代の私たちは経験しています。そして、確実に次の「大地震」は地中で準備されているのです。私たちの世代が生きているうちにやってくるでしょう。 ならば阪神大震災でも東日本大震災に対しても支援者でしたが、当事者としての構いになっているか問われてきます。その前提は二つの大地震での経験を忘れず、適時に想起して言い表していくべきかと考えます。