これは 天気予報が「軍事秘密」になった日。 2013-11-04 | の
続編ということになります。28日の「赤旗」に記載されていました。
11月14日のブログではラジオの一聴者としての体験を紹介しましたが、
この記事は当時の測候所の所員としての体験です。増田善信(ますだよしの
ぶ)さん(90)、元気象研究所研究室長。
気象が暗号化
当日(1941年12月8日)朝、「ラジオのニュースで軍艦マーチが流れ、開戦
と真珠湾攻撃を知り、大きな戦果に、わくわくする思いをしたのを覚えています」
午後6時すぎ、中央気象台の気象電報を受信して、天気図を描こうとしました。
しかし――。 「地点も内容もバラバラの通常とは全く違った電報が来たんです。」
実は同日正午から「気象管制」が始り、気象電報は暗号化され天気予報を一般
の人には知らせることができなくなっていたのです。所長の手元には暗号解読用
の本が届いていて、表紙には『極秘』と大きく印刷されていました。
「軍事的に重要な天気に関する情報一切が秘密になった。顔見知りの市民に天
気のことを聞かれても、何も答えられなくて身を切られる思いでしたね」
地震 ・ 津波も
台風の進路や暴風雨警報、地震 ・津波の被害も秘密にされました。
44年12月の「東南海地震」と45年1月の「三河地震」という大地震が起きても、気
象管制の下で一般の人に秘密にされました。犠牲になった学徒動員で働いていた学
生や、集団疎開していた児童の親にすら知らされませんでした。
「軍事保護法も秘密保護法案も、一番守ろうとしているのが、人の命より『国』です。
憲法で保障された人権や知る権利は無視され、平和主義がひっくり返されてしまう」
戦中の気象管制が解除され、ラジオの天気予報が再開されたのが45年8月22日。
多くの人が「戦争が終わった」と実感したといいます。
「天気予報は平和のシンボル。これを絶やさないためにも、秘密保護法案は廃案に
しなくては」と語りました。