「禁止された天気予報」と「俳優・田村高廣」を結びつけているのは、この本
です。その頁は
です。
田村高廣さんについては http://ja.wikipedia.org/wiki/田村高廣 など
見て下さい。
まず、こ本については一昨日触れました。「天気図 雨雲の動き」を見てい
るうちに、以前天気予報が禁止されていたため、大変な被害はあったことを
調べた本があったことを思い出し取り出してみたのです。
書名に「戦時報道管制下」とあります。報道管制とは報道機関に隠す、嘘を
つかせるということです。ですから大地震も津波も「隠された」のです。その内
容は読みながら報告していきたいと思いますが、とりあえず田村さんのこと。
この本のはじめ、≪「はしがきに」にかえて≫はこう書き出されます。
≪昭和十九年(1944)12月7日の東南海大地震の際、勤労学徒として愛知
県・半田市の中島飛行機山方工場に動員されていて圧死した人の名簿の中に
「小林タマエ」(15歳)という氏名がある≫ と。
この時、153人が圧死この内96人は動員勤労学徒でしたが、「極秘」という
ことで当時の新聞には一行も書かれなかった、とのことです。
この大地震の時に、この工場で田村さんも動員されて働いていました、京都
府立三中生であった16歳の少年です。田村さんの「私は考える」を写し書きし
ます。
≪ばくは偶然にも、ちょうどその時、『天山』という組立中の飛行機の胴体の中
に入って仕事をしていました。そのためにたすかったのですが、もう、あっという
間のことでした。ぼくにとっては、あの戦争と地震による惨禍は切り離しては考
えられない。戦争がなければ『学徒動員』もなかったし、半田まで行って学友13
人も死ぬことはなかった。京都の中学生が何んで半田の工場に動員されなけ
ればならなかったかも、いまだにわかりません。動員されるとしても、もっと近い
所があった筈ですから。ばくたちは実に純粋な気持で悲壮感すらもっていませ
んでした。戦争なんだからあたりまえのことだと考えてね。その時、そう教育さ
れたというよりも、子どもの時からお国のために戦争に行く、お国のために死ぬ
のはあたりまえだと教えこまれ、信じきっていましたから。教育というのはこわい
ですね。 だから今、『戦争反対』 を口先で叫ぶだけではダメですよ。その戦争を
くりかえさないために、どうしなければならないか、もっと考えるべきではではない
ですか。戦争は人災でしょう。だからこれは政治の姿勢や人の考え方によって防ぐ
ことができる。しかし地震は天災ですから、起こること自体は防げません。だけど
今は科学の力でそれを予知できるというでしょう。それなら何百億円もの金を使っ
て戦争の道具である飛行機などの兵器を買うよりは、地震の予知のために必要
なコンピューターを買うとか、技術者を配置するようにしたらどうでしょう。たとえば
のことです。戦争は、それに人間性もムチャムチャにする、いやですね。そんな体
験をみんな、それぞれにしたのですから、戦争反対ということをもっと真面目に考
えるべきですよ。ただ言うだけでなしに……≫
山下さんが田村さんからこの話を聞いた日が何時かは書かれていませんが、
本の≪「はしがき」にかえて――≫の終り部分に≪(1986・7・21)≫とあります。
1986年前半とすると、戦後31年田村さん58歳前という時期でしょうか。