今日の「赤旗」に最近行なわれた日本共産党とベトナム共産党の理論会
議での日本共産党の不破団長の報告(上)が掲載されています。全文は
ここで(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-01-08/
2014010807_01_0.html )読めますが、文中に今日のタイトルに関
する部分がありましたので、その部分を。
≪(1966年2月)日本共産党とベトナムの党が本格的な会議をやったのは、
これが初めてです。(お互いの党に通訳できる同志がいないので、中国語を
介しての二重通訳でした。会議が終わって)宮本同志(日本側団長)とホー・
チミン同志(当時ベトナム国元首)と両党の今後のことをいろいろ相談し、そ
の中では、双方で直接自国語で通訳できるような学生を養成しあおうじゃな
いかということも含まれていました。≫
その養成に応じた一人が当時東京港区の電気メーカーの職場で活動し
ていた高野功氏でした。この高野氏を思い出せてくれたのが昨日のこの
ブログ、http://blog.goo.ne.jp/setoti1940/e/6e7ad5c559031b
76e3a076c8ce63e0e7#comment-list です。是非見て頂きたい、
読んでいただきたいと思います。 チトセさんのアオザイ姿も歌う姿と歌詞も。
ここではkaeruのコメントの一部を載せておきます。
1979年ベトナムで当時ベトナム・中国間の国境での
戦争で、取材していた「赤旗」記者の高野功氏が中国
軍の射撃で殺されました。彼は港区時代の仲間で、奥
さんが上田の高校を出た人でした。
さて、この本は表紙に見られるように「ベトナム戦争で亡くなったジャーナ
リストの妻たちの語る記録です。(『わが夫、還らず』砂書房 2000年5月刊)
6人の妻たちの記録のあと、報道カメラマンの石川文洋さんがこう書かれ
ています。
≪いくつかの資料をあわせると私の計算では氏名が分かっているだけで
取材中に尊い生命を失ったジャーナリストは172名。 最初の犠牲者は19
54年3月13日、第1次インドシナ戦争を撮影中、ベトナム北部、ラオスとの
国境に近いディエンビエンフーのフランス軍基地内で砲弾を受けたフランス
人カメラマン、レイモン・アルチノフ。最後となったのは1979年3月7日、ベト
ナム北部ランソン省で中越戦争を取材中、中国兵の狙撃に遭った赤旗特派
員の高野功。≫
最後に石川さんが書かれている国別の犠牲者数。
アメリカ22、カンボジア22、フランス19、日本15、シンガポール3、イギリ
ス2、西ドイツ2、韓国、オランダ、カナダ、インド、アルゼンチン、スイス、各1、
ベトナム人はベトナム共和国(南ベトナム)側4、北ベトナム、解放戦線側72。
この優れた同志のことを思い出させる切っ掛けになった昨日のチトセさん
のブログに感謝します。 そして、こういう「出会い」もブログで「つぶやき」つづ
け、なにかと読み見つづけてきた「効果」かと思います。
終わりに、この本の「高野功」の章の〆に高野氏の妻・高野(旧姓 本道)美
智子さんについて書かれていることを紹介しておきます。
≪今、美智子はもう一度福祉の勉強をしたいという。自分の両親をみていると
老人介護のありかたもよりはっきりした形で見えてくる。また一日の大半を子ど
もと二人きりで過ごす娘を見れば、若い孤独な母親に対して地域と密着した保
育がどのような役割を果たすべきかということも見えてくる。美智子は自分でな
ければできないことを今また始めようとしている。≫