冬のさなかに、「五月雨」の句の話に冷たさを倍する思いですが、ご勘弁
をねがって昨日の続きです、あらためて最上川の句を、
五月雨をあつめて早し最上川
「おくのほそ道」の本文は
最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。
=最上川を舟で下ろうと思い、大石田という所で舟遊びによい晴天を待った。
とありまして、ここ大石田で土地の俳人たちと句会を催しています。
その場で詠んだのは
さみだれをあつめてすゞしもがみ川 でした。
長谷川櫂さんの文章より。
≪『おくのほそ道』ではこの「すゞし」を「早し」に直しています。なぜあらためたの
か。二つの句はどうちがうのか。
歌仙(大石田での句会)の発句として詠んだとき、芭蕉はまだ舟に乗っていませ
ん。つまり岸から眺めた最上川の印象が「すゞし」です。さらにこの「すゞし」は土地
の人々への挨拶でもあります。
一方、『おくのほそ道』に入れた句は舟に乗りこんで最上川を下りながら詠んだ
句です。「早し」は激流を下るときの最上川の印象です。
蕪村にも五月雨と大河を詠んだ句があります。
さみだれや大河を前に家二軒
二つの句には芭蕉と蕪村の資質のちがいがはっきりと出ています。芭蕉は舟に
乗って激流に乗り出し、大河と一体になっています。その結果、句には躍動感が
あふれています。
一方、蕪村は大河の岸辺から、というよりは空中の一点から大河と二軒の家を
眺めています。梅雨の大河を詠んでいいるのですが、ここにあるのはあくまで静か
な一枚の絵です。芭蕉の句と比べると、動と静のちがいがあります。蕪村は芭蕉
の句を十分意識してこの句を詠んでいまし。芭蕉は「五月雨をあつめて早し」と詠
んだが、私は五月雨の大河はこの句だというわけです。≫
続けて長谷川さんは、蕪村は本業の画家の目、芭蕉は本業の歌仙の感覚があ
ふれていると述べています。 歌仙とは連句の一形態で、連句とは参加者が長句
(五七五)と短句(七七)を交互に詠みあうもの、全部で三十六句つづける連句を
歌仙といいます。