『命あまさず』を読み進めています。すると葉山の地名が出てきました。「八月二十九日(1940年)、秋幸は山本健吉夫婦、石橋達吉、西東三鬼たちと一緒に葉山の北舟子の家に遊びに行き、その晩西東三鬼の家に泊まったのだった。その次の日、秋幸は東京に戻り、その晩の明け方、つまり三十一日早朝、三鬼は警察に逮捕された。」
このままだと西東三鬼の家が葉山にあったかのように思われますが、同時まだ三鬼は葉山に住んではいませんでした。そのへんのことを三鬼自身の書いたもので紹介しておきます。
「昭和十五年八月二十九日、石田波郷は、山本健吉夫妻や私などを誘って、葉山森戸海岸に泳ぎにいった。……その夜、波郷は大森の私の家に泊った。……三十日朝、少し金を作ってくるといって彼はぶらりと東京へ出て行った。そして幸福にも我家へ泊まりには来なかった。…もし三十日夜、波郷が私と枕を並べて寝ていたら、三十一日朝五時半、ドヤドヤと乱入して来た四人の特高に、一応はしょっぴかれたにちがいない。」(三鬼『俳禺伝』)
三鬼の逮捕に関して秋幸の言葉として書いていることに戻ります。
「…秋幸は無季俳句の主張にも意義を認めていたのだった。しかし去年のはじめ、“京大派”の俳人たちを警察は逮捕した。俳句を改革しようとしたことが当局の禁忌に触れたのらしいと秋幸は聞いて憤った。余計なことをしてくれる、と思った。権力が芸術に干渉するのは許せないという気分だった。しかし、同じ昨年の夏の終り、秋幸も一日違いで西東三鬼と一緒に逮捕されるところだったのである。」このあと「八月二十九日、」の部分につながるのです。
西東三鬼が葉山町に移り住むようになったのは昭和三十一年(1956)でこの地が終焉の地となりました。昭和三十七年(1962)「ガンの転移急速をきわめ、終日就床すること多く、四月一日午後〇時五十五分、長逝。」と西東三鬼略年譜の最後に記されています。