金子兜太著『我が戦後俳句史』(岩波新書)より (一部略)
【 長崎にて
昭和三十三年一月、私は長崎に転勤しました。
( 金子兜太 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/金子兜太 )
彎曲し火傷し爆心地のマラソン
(彎曲わんきょく 火傷かしょう)
支店の行舎も独身寮も山里町の平和会館のそばにあって、私はいきなり原爆の被害を諸に受けた地帯に住んだわけですが、そのときでも、行舎の庭から人骨が出ることがあるといわれていました。
ここよりすこし高い、山寄りのところに、全滅した長崎大学医学部および付属病院の施設があり、全壊の浦上天主堂があり、顔だけの天使像が瓦礫のなかから空を見ていました。
私は短歌総合誌の『短歌研究』から、長崎の句をつくってくれといわれていたのを好機とおもい、爆心地を毎日歩きました。そして、荒廃の丘陵にはすでに人々の暮しの営みが旺盛な勢いではじまっていることを承知しました。私は、荒廃とこの生ま生ましい生命力の蠢きとの溶け合った地帯に、しだいに親しみを覚えていったことを忘れません。
そのときにできた句のうちの一つが、この「彎曲し」です。爆心地をマラソンの列が若やいだリズム感で走っていたのですが、にわかにランナーたちは、体を歪め、火傷やけどして、崩れてゆく。ーー私の頭にその映像が焼きついてしまい、いくども繰り返しあらわれてきます。元気よく走っていた長距離ランナーたち。しかし、いま、その肉体は火傷し、彎曲して、その姿のままで走ってゆく。倒れもせず走ってゆくのです。喘ぎ喘ぎ、ひん曲がって皮膚を垂らして走ってゆく。】