kaeruのつぶやき

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「第二次上田合戦の真相」その3

2016-09-13 20:47:04 | 「真田丸」

   先程の「ふたつの驚き」のひとつ目、閲覧と訪問者数の一気の高騰に関連しますが、多分「第二次上田合戦の真相」と関係したのではないかと思うのです。この「kaeruのつぶやき」がはじめてランキングに顔を出したのが、朝ドラの「あまちゃん」をとりあげた時でした。振り返ってみました、

 

さて、本題の「第二次上田合戦の真相」です。

【 だが事態は急展開する。家康は作戦を急遽変更し、秀忠に対して急ぎ上洛し参戦するよう命じたのである。秀忠がこの指示を受けたのは、九月九日のことであったという(『朝野旧聞褒藁』巻二十二)。秀忠が家康から作戦変更の指示を受けたことが確実な史料で判明するのは、九月十一日のことである(『房総里見氏文書集』二六九号)。関ヶ原合戦は四日後の九月十五日、そもそも秀忠が美濃での合戦に間に合うわけがなかった。秀忠遅参説は、かなり誤解が多いことがわかる。こうした新見解を念頭に置きつつ、第二次上田合戦を再検討する必要があるだろう。】ということです。

この第三章「関ヶ原合戦と上田城攻防」はこのあと、

徳川秀忠、上田に迫る  一次史料が語る第二次上田合戦 軍記物が語る戦闘経過 第二次上田合戦の実像  と各節が続きます。 

「徳川秀忠、上田に迫る」では、

【 徳川秀忠は、榊原康政・大久保正信、酒井家次・本多忠政ら徳川譜代の面々を従え、与力大名小笠原信之、諏訪頼水らを加えた軍勢であり、それは徳川軍本隊秀忠軍は、ともいえる構成であったと指摘される(笠谷①②)。秀忠軍は八月二十四日に宇都宮出陣すると(『信』補遺下六〇)、二十六日に高崎(桑名市博物館所蔵文書)、二十八日に松井田(『信』補遺下六〇)を経て碓氷峠を越え、九月二日小諸に着陣した。

《( )内の記号の史料については別記します。このあと、秀忠軍の小諸到着に呼応した信濃の各大名の動きが記るされてます。信幸についても書かれてますが、先を急ぎましょう。》

   いっぽう、江戸の徳川家康は、東軍の豊臣大名たちが八月二十三日に岐阜城を攻略し、二十四日に美濃赤坂に進んだことを知ると、慌てて出陣の準備に入った。家康は、味方になったとはいえ、福島正則、田中吉政、黒田長政、山内一豊ら豊臣大名を信じ切ってはおらず、江戸で様子を窺っていた。しかし岐阜攻略と赤坂進出は、家康の予想を超えた速さであったし、またこれによって彼らへの疑念も払拭されることとなった。むしろ、家康不在のまま豊臣大名主導で、西軍が打倒されれば、家康の政治的主導権や発言力は大きく削がれ、彼の威信は失落してしまう。これこそ、家康が九月一日に江戸を出陣し、また真田攻めを命じていた息子秀忠に、作戦変更の変更と上方への参陣を至急指示した理由であり、それは他ならぬ家康の焦りによるものであった(笠谷①②)。

《太字はkaeruです、家康の爪噛む姿が浮かびます。このあと、秀忠と家康の連絡の行き違いや真田昌幸と信繁の徳川軍との対峙が書かれていきます、そして【 いよいよ第二次上田合戦の火蓋が切られた。】となるのですが、火蓋を切ったあとは「一次史料が語る第二次上田合戦」へ入りますので、今夜はここまでです。

史料説明  笠谷①『関ヶ原合戦と近世の国制』思文閣出版 2000年/笠谷②『関ヶ原合戦と大坂の陣』(戦争の日本史17)吉川弘文館 2007年)/「『信』補遺下六〇」 信濃史料補遺下六〇頁/


今日の驚きがふたつ。

2016-09-13 18:54:40 | どこまで続くかこのブログ

  平々凡々な毎日であっても、びっくりするようなことがある日があります。今日はふたつありました、まずは深夜のこれです、

「アクセス」の閲覧と訪問者の数値、この数値でなぜ驚くか、それはこれです、

   日常普段見ている数値は500前後のPVと200未満のIPなのです。

  その日常から一気に290IPが出ていて、え!と思ったら、それどころではない2390PVなのです、この数字に関心を持つのは、発信した思いがどれだけの人に受信されたのかの関心に繋がります。記憶では200をやっと越えた程度が2、3回あったでしょう、ですから一気に300近くに及ぶとは、やはり驚いて然るべきです。

   2390PVはそんな驚きをはるかに超える値なのです。上の数値一覧がそれをひと目で示しています。一週間分の数字がいっぺんにやってきたのです。それが嬉しいのは1IP当り8.2PVになるという事です。正確なことはよくわかりませんが、1人が「kaeruのつぶやき」を覗いてみて一回だけでなく、1人平均8回以上もブログのこの日あの日と見て回ってくれた、ということです。それはこのブログに関心をもってもらえたということで、発信者として発信しがいのあることです。

   なぜ、こうなったか? 心当たりはありますが、くどくなりますのでもう一つの「驚き」に移ります。この写真の人です、手にしているのは黒田先生の文集です。

  

3月2日のブログで、こう「つぶやき」ました。

 

   今日はこの再会の日でした、この人はその旧友のひとりなのです、彼女が黒田先生の教え子だったとわかるためにはこの写真の説明が要ります。

パソコンに向かう黒田先生の姿、雑誌「女性自身」平成26年8月12日号のものです。今日の集りに「100歳でパソコンに向かう姿からお互いシニアとして励まされる」と言いたくて、テーブルに広げたのですが、Kさんに「黒田先生は中学の時の先生」と言われてビックリです。

   鎌倉の人だと思っていましたが中学の時逗子に住んでいた時期があったそうです、「世間は広いようで狭い」と周りからも言われましたが、これも「シニア情報生活」に身を置いていたからこその縁でした。

   今日のビックリの1つはブログでの広がりにビックリ、もう1つは人と人を結びつける縁のものであることにビックリです。