先程の「ふたつの驚き」のひとつ目、閲覧と訪問者数の一気の高騰に関連しますが、多分「第二次上田合戦の真相」と関係したのではないかと思うのです。この「kaeruのつぶやき」がはじめてランキングに顔を出したのが、朝ドラの「あまちゃん」をとりあげた時でした。振り返ってみました、
さて、本題の「第二次上田合戦の真相」です。
【 だが事態は急展開する。家康は作戦を急遽変更し、秀忠に対して急ぎ上洛し参戦するよう命じたのである。秀忠がこの指示を受けたのは、九月九日のことであったという(『朝野旧聞褒藁』巻二十二)。秀忠が家康から作戦変更の指示を受けたことが確実な史料で判明するのは、九月十一日のことである(『房総里見氏文書集』二六九号)。関ヶ原合戦は四日後の九月十五日、そもそも秀忠が美濃での合戦に間に合うわけがなかった。秀忠遅参説は、かなり誤解が多いことがわかる。こうした新見解を念頭に置きつつ、第二次上田合戦を再検討する必要があるだろう。】ということです。
この第三章「関ヶ原合戦と上田城攻防」はこのあと、
徳川秀忠、上田に迫る / 一次史料が語る第二次上田合戦 / 軍記物が語る戦闘経過 /第二次上田合戦の実像 と各節が続きます。
「徳川秀忠、上田に迫る」では、
【 徳川秀忠は、榊原康政・大久保正信、酒井家次・本多忠政ら徳川譜代の面々を従え、与力大名小笠原信之、諏訪頼水らを加えた軍勢であり、それは徳川軍本隊秀忠軍は、ともいえる構成であったと指摘される(笠谷①②)。秀忠軍は八月二十四日に宇都宮出陣すると(『信』補遺下六〇)、二十六日に高崎(桑名市博物館所蔵文書)、二十八日に松井田(『信』補遺下六〇)を経て碓氷峠を越え、九月二日小諸に着陣した。
《( )内の記号の史料については別記します。このあと、秀忠軍の小諸到着に呼応した信濃の各大名の動きが記るされてます。信幸についても書かれてますが、先を急ぎましょう。》
いっぽう、江戸の徳川家康は、東軍の豊臣大名たちが八月二十三日に岐阜城を攻略し、二十四日に美濃赤坂に進んだことを知ると、慌てて出陣の準備に入った。家康は、味方になったとはいえ、福島正則、田中吉政、黒田長政、山内一豊ら豊臣大名を信じ切ってはおらず、江戸で様子を窺っていた。しかし岐阜攻略と赤坂進出は、家康の予想を超えた速さであったし、またこれによって彼らへの疑念も払拭されることとなった。むしろ、家康不在のまま豊臣大名主導で、西軍が打倒されれば、家康の政治的主導権や発言力は大きく削がれ、彼の威信は失落してしまう。これこそ、家康が九月一日に江戸を出陣し、また真田攻めを命じていた息子秀忠に、作戦変更の変更と上方への参陣を至急指示した理由であり、それは他ならぬ家康の焦りによるものであった(笠谷①②)。
《太字はkaeruです、家康の爪噛む姿が浮かびます。このあと、秀忠と家康の連絡の行き違いや真田昌幸と信繁の徳川軍との対峙が書かれていきます、そして【 いよいよ第二次上田合戦の火蓋が切られた。】となるのですが、火蓋を切ったあとは「一次史料が語る第二次上田合戦」へ入りますので、今夜はここまでです。
史料説明 笠谷①『関ヶ原合戦と近世の国制』思文閣出版 2000年/笠谷②『関ヶ原合戦と大坂の陣』(戦争の日本史17)吉川弘文館 2007年)/「『信』補遺下六〇」 信濃史料補遺下六〇頁/