弟の義母が亡くなったのメールが入りました、98歳、100歳まで元気だろうと弟は言っていたのですが……。弟は結婚して義母と一緒に暮らしてきましたので、夏の兄の死去もあっていっそう気を落としていることでしょう。
家族葬だということで、電話でのお悔みですませ、いずれ折をみてと妻と話したことです。実は昨夜弟と会うつもりでいたのでしたが、100歳近いという日々には予測をこえる急変があるのだと思わせられます。
妻が病院の診察を終えて帰宅、眼底出血の検査が必要で近くの眼科に行かなければと言います。それで兄の葬儀はいつだった? と聞かれました、家の玄関の外灯のガラスの覆いが落ちてきて頭に当たった時期を確認したい、私が留守中のことだったというわけです。あれは7月?いや6月だろう、そんな時はブログが記録してます、6月はじめでした。
兄の死からすでに四ヶ月経ったのかと、思い返したのでした。
そんな話の続きですので、この本です、
このなかの二行、
【ほとんどの人がまず最初に「自分も死ぬ存在である」ことに気づくのは、…… 、肉親の死からであろう。】
確かに、と思います。
さて死の他方には成長があります。本当は生があります、孫がもう一人と言いたいのですが、それは望めないでしょう、ならば成長する者の姿を。
明日石垣島の孫が東京にやってきます。高校一年生で、先輩の幾人かと先生に引率されての「研究発表会」への参加と聞いていたのですが、結局彼と先生ということになったそうです。
何を発表するのか会場で聞きたいのですが、と伺ってもらったらそういう設定にはなっていないとのこと、残念ですが孫から聞かせてもらい勉強しようと思います。
今夜のタイトルには散る葉の表すものは、地に落ちて土になる何万という葉の先触れをも表していると言いたいからです。天下の秋は実りの秋でもあります。
桐一葉落ちて実りの秋の貌 kaeru