kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

「真田昌幸の死」その1

2016-09-25 22:51:42 | 「真田丸」

  平山さんの『真田信繁』の第4章が「九度山での雌伏」で、その1 父昌幸の死、その2が大坂入城、になってます。「父昌幸の死」には、真田父子の雌伏、父子の明暗、九度山へ、仕送りに頼る生活、昌幸の晩年、という各節に分けられています。

  「父昌幸の死」はドラマの「昌幸」と対応しているのでしょうが、生憎所用で外出見逃しました。よってドラマをまったく離れて、『真田信繁』の内容です。

   これは『真田信繁』に紹介されている「九度山時代の真田昌幸文書一覧」です。31通で年月日、署名、宛所、備考、内容摘要、出典の順です。

 

  平山さんの記述中この文書に触れている部分を抜書きしておきます。

【(昌幸信繁等の)台所事情は苦しかったようだ、そのために昌幸は高野山周辺から多額の借金をしていた。昌幸らの頼みは、国元からの贈答などであったらしい。このことは、九度山時代に発給された真田昌幸文書を検討するとはっきりとわかる。

  九度山時代の昌幸文書は、生活の困窮と合力(金銭・品物をめぐむこと)の催促、そして気鬱を訴え、家臣の来訪や贈答品を喜ぶもので満ち溢れている。宮下藤右衛門に宛て、いろいろと不自由なので毎年の合力を早く送ってくれるように求めたり(No.9)、借金が多くて難渋しているため、息子昌親(信之・信繁に実弟)から臨時で四十両を用立ててもらい、そのうち二十両を受け取ったが、それでも足りず、残りの二十両を一日でも早く届けてほしい、今年の合力分のうち十両は春のうちになんとか頼む、用意でき次第、五両でも六両でも構わないと申し入れている(No.5)。

  またしばしば飛脚を出したり、随行家臣の池田長門守、河野清右衛門を江戸に派遣したりしている(No.7、9、18)。国元の重臣木村綱茂にも、信之と昌親に取り成しを依頼する書状を送っており(No.21)、これらはいずれも合力(金子)を要請するものだったと考えられる。】

  九度山での謀将昌幸の生活実態はまだまだ続くのですが、今夜はここまで……で。