kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

続々 旧交を温める

2016-10-19 20:48:44 | どこまで続くかこのブログ

   昨日車中で隣り合わせながら牛久駅まで、いやその後でも気付かなかった爺さん風の人とは、7月のアタマに会っていたのです。彼との場合も40年ぶりの再会で、その時共通の友人であり同志である牛久の友に会おうということにしていたのでした。40年という歳月は人を爺さん風のするには十分な時間で、7月、相模原のある駅に彼が現れた時いかにも爺さんになった(私の方が6歳上ですから爺爺ぶりはもっと、でしょうが)と感じました。でも握手した手は力強く現場労働者であった彼そのものでした。

   そんな彼でしたので二度目であっても横顔では気付かなかったのです、人の顔が正面と横顔ではかなり違う、そう言えば横顔の遺影というのは見たことが無い、本人かどうか分からないからでしょう。


   牛久の友人の話に移らなければならないのですが、その前にもうひとつ、

   昨日の「つぶやき」にワイコマさんからコメントがあり、旅名人らしく路線情報アプリを教えてくれました。 (http://transit.yahoo.co.jp )

   それで検索したのがこの路線です。12時に牛久駅で会おう、に十分に間にあう路線が、それも一回乗り換えればよかったのです。情報が沢山あることが良いのは、それを使える能力があってのことだという事例でした。

 

   Kさん、彼も先ほどの爺さん風の人(Yさんといいましょう)と同年齢で私より6歳若いのですが、昨年奥さんを亡くし独り暮らしになり地域の福祉生協の運営する老人ホームに入居していたのです。牛久の街は山が見えません、Yさんは相模原の人ですから私同様神奈川県在、私の住む三浦半島より山らしい山に囲まれているでしょう。彼と歩きながら山がないね〜、そうだなぁ、空は秋晴れです、いい気分で歩きました。

   そのホームに着きました、普通のアパートです。聞くと入る人が少なくなったアパートを生協が提携して運営しているのだそうです。その一室のドアを開けて現れた時、一人の老婦人かと思われました。それは彼の母親の姿だったのです。

   40数年前私は民商という業者団体の職員として彫金業者であった彼の家によく顔を出していたのですが、いつも彼のお母さんが応対してくれました。仕事に向かっている彼の代わりに話し相手になってくれてお茶や菓子類に手を出しながら四方山話、いま内容は思い出せないのですが飽きもせず聞き話していました。帰りは仕事の手を休めた彼が腰を伸ばす時間だと一緒に外に出、麻布我善坊という地名の細い道をひととき歩いたものです。

   当時の地域で一緒に活動をしていた人々との交流があるというので、私が聞く彼が答えるYさんも応じる、時間の経つのを忘れるとはこういうことかと思いつつの時間の経過です。壁に「点鬼簿」と記された表が貼ってあります、1990年代から氏名と死去した年月日だけが書かれています、親族の名前だろうと思われる名前とあわせ目につくのが宮本顕治とか蔵原惟人の名前も、私にとっても懐かしい地域の先輩だけではなく後輩の名前もあります。

又来るよ、と立ち上がったら目の前に彼が書いた、

なるものが目につき「これ貰う」といって持って来ました。

1995年10月に書き上げ2013年2月末加筆とあります。 

この一書の最後に正岡子規の「病床六尺」からの引用が目に付きます。

「余は今まで禅宗のいはゆる悟りという事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。