今日の「資本論講読会」は第2巻2篇「第12章 労働期間」から「第14章 通流時間」までの45頁分、報告者のYさんが内容をA4三枚にまとめてきて説明されました。
一応昨夜、付け焼刃的に目を通していましたが、一読して分かるような代物ではありません。でもここの部分は本当は分からなければいけない所なのです。この三つの章は「資本の生産過程と流通過程のそれぞれを、時間的な面から、そして資本の回転への影響という主題で検討」しているからです。すでに、第1篇の「第5章 通流時間」で同じ問題を資本の循環という角度から研究しているのです、それをここでは資本の回転論の一環として研究したものだからです。
その第5章を報告したのが私でした。その辺は読んでいてピンとこなければならないのですが、上の指摘は不破哲三さんの《『資本論』全三部を読む》に書かれていたことで、先ほど目を通してそうだったのかと思い至ったところでした。
多分「資本論」は「分からない、難しい」とつぶやいたりぼやいたりしながらも読む、そして時々そうだったのか、と思うことも読み方のひとつでしょう。要は読まなければそれで終わりですから、山に登るのと同じです、そういえばマルクスもこういうふうに言ってます。
《 学問にとって平坦な大道はありません。そして、学問の険しい小道をよじ登る労苦を恐れない人々だけが、その輝く頂上にたどりつく幸運にめぐまれるのです。》
書いた本人がそう言っているのですから間違いありません。この本は平坦な大道ではなく、険しい小道だということを肝に銘じなさい、そしてその努力は充分にむくいられます、たどり着けばそこは輝く頂上ですから、と。
問題はいつたどり着くか、いやたどり着けるか、です。それだけに一応の頂上=全巻通読に向けてひたすら登ることが第一。同時に、こういう山は今登っているところがその都度そのつどひとつの頂上だとも思います。周りの山々を見下ろしながらの山道ですから、それだけに頂上だけに目を向けていては鳥瞰できない、眼下だけでなく足元の石にも目を配りながら歩くことが頂上へたどりつくコツでしょう。
そこで、マルクスのこの手紙、
「親愛なる叔父上」 ではじまっているところは見えませんが投機して儲けたことが書かれています。
これについて雑誌「経済」の5月号で今宮謙ニさん(中央大学名誉教授)が「ここで注目するのはマルクスが株式取引などを資本家たち(つまり敵)の市場とみていたこと、もう一つはまたやるつもりですと書いている点である。その後マルクスが投機取引をした証拠はどこにもない。〜 おそらくやったとしても失敗して損失したのではなかろうか。マルクスが銀行などを賭博とぺてんの推進者などと記したのは投機取引をしたと報告した翌年の1865年夏以降であり、その失敗の体験からこのような結論を得たのではなかろうか。」
それは、として『資本論 第3巻』の第32章から二ヶ所引用しています。その部分と今宮さんが語る「『資本論』の魅力」について明日触れたいと思います。