kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

市振の段=最初の「別れ」、その1。

2014-04-18 21:33:09 | kaeruの「おくのほそ道」

 長谷川先生のテキストは机上の積み重ねられた紙に間にありました。

 

 タイトルに 「最初の別れ」 と入っているのは先生の 「おくのおそ道」 構成

全体の区分からきています。このブログでの書き方が「テキスト」 のつまみ食

いのようになっていましたので、ここで全体の構成について触れておきます。

 

 全体を四つに部分分けしています。

第1部=「心の世界を開く」。 「古池や蛙飛びこむ水の音」 が「蕉風開眼の句」

 といわれるのは、それまで言葉遊びであった俳句にはじめて心の世界を開い

 たからで、芭蕉はその三年後の「おくのほそ道」でその世界を存分に展開した

 かったのです。 旅程でいえば江戸を立って白河の関まで、この部分を長旅の

 ための禊だと述べられています。

第2部=「時の無常を知る」。東北の歌枕を訪ね平泉の跡に立ち 「時の無常

 迅速」 を胸に嘆きとして抱きます。「夏草や兵どもが夢の跡」です。旅程では

 白河の関から尿前の関までがこの部分です。

第3部=「宇宙と出会う」。尿の関から市振まで、山寺、出羽三山、最上川、

 日本海に沈む太陽と荒海に浮かぶ佐渡に天の川。  この旅程を通じ太陽

 も月も変転極まりないが、同時にそれを貫いているものは不変の「閑さ」で

 あり、動と静その両面を「不易流行」という言葉でとらえます。

第4部=「別れを越えて」。市振から大垣までの旅程は五つの別れが組み

 込 まれています。

 1、市振での遊女との別れ。 2、金沢では一笑との別れ。 3、山中で曽良と。

 4、天竜寺では北枝(ほくし)との別れ。そして最後に5、大垣でのわかれです。

それを通じて芭蕉は 「かるみ」 という人生観に到達していきます。

 遊女との別れについてもかなり長くなりそうなので、この後は明日にします。


90歳代からの俳句。

2014-04-17 21:30:20 | kaeruの「おくのほそ道」

 今日は「kaeruのおくの細道」として長谷川先生の「市振」の章を紹介する

予定でした。ワイコマさんのコメントに「明日を楽しみにしましょう」と言われて

いまして大変恐縮なのですが、先生のテキストが見当たりません。

 机の上にあった筈なのですが、どこかに紛れ込んでしまいました。それが

ないと手も足も出ませんので、次の機会に(明日探せたら明日にでも)したい

と思います。

 

 タイトルは日野原重明先生のお名前を 『ランドセル俳人の五・七・五』 の帯

に先生の推薦の言葉を見た時、思ったもので直接には雑誌「俳句」の平成22

年9月号に関連します。この写真は同誌の日野原重明先生と俳人・金子兜太

氏の対談です。

 見出しの「俳句療法」に関するところを対談のなかから紹介します。

 金子「私は昨年(平成21年)、90歳になりましたが、先生は卒寿を

過ぎてから俳句をはじめられましたね。」

日野原「私は勧められて俳句療法学会の名誉会長となりました。~」

金子「~。俳句をはじめて、何が変わったことはありますか?」

日野原「俳句を作ることは自分を支えになる。生きがいを起こすし、ポ

ジティブになる。いつもならぼやーっと見ているような景色でも、ああ、

来月の句会には出さなくちゃならないと思うと、手帳を開いて、ちょちょっ

とテーマを、音楽でいえばモチーフを三小節くらい書くとか、そういうプロ

ダクティブな気持ちを持って生きるようになる。先ほど音楽療法の話をし

ましたが、短い俳句の中にも似たような効果があると思います。」

 この対談に関して次の文庫を紹介しておきます。

 日野原先生は日本音楽療法学会の理事長で、雑誌の対談の中でもこ

のようなお話をされています。

「音楽というものが脳に対していろいろな力があることもだんだんわかっ

てきました。 自閉症の子供、あるいは認知症の老人に音楽療法ははっ

きり効果があるのです。パーキンソンの患者に音楽療法として、ワルツを

踊らせると筋肉の緊張がなくなる。 脳に働くホルモンが出るのでしょう。

今、詳しく研究中です。そんなわけで、今まで西洋の音楽や詩が好きだっ

たけれど、ふとしたきっかけでこの歳になって俳句にもタッチをするように

なったのです。」


kaeru芭蕉、市振に。

2014-04-16 20:23:07 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅  (4/13着信)

○現在地  市振に到着しました。

○次の目的地  奈呉の浦

○次の目的地までの距離  9.7km

○次の目的地までの歩数  13,000歩で達成です。

この間、「kaeruのおくのほそ道」をUPしていないなーという気持ちはあった

のですが、気をつけて見直しをしていませんでしたら、道中の難所・親知らず

着を抜かしていました。地図は省略して到着記録だけ付けておきます。

市振りでの長谷川先生の話は明日紹介したいと思います。

■奥の細道の旅  (3/29着信

○現在地 親不知に到着しました。

○次の目的地  市振

○次の目的地までの距離  61.0km

○次の目的地までの歩数  8
1,705歩で達成です。


『ランドセル俳人の五・七・五』 ー 5(了) -。

2014-04-15 21:49:06 | kaeruの五七五

 これは一昨日と同じ頁です。こちらの方が少しは鮮明ですので、再度載せ

ました。それは今日の「つぶやき」の内容に関係する俳句です。

 

 この頁の四句には 「春」 という題がついています。

  春の虫踏むなせっかく生きてきた

  手の平に小さな命春の使者          (8歳)

  捨てられし菜のはな瓶によみがえり

  雪やなぎ祖母の胸にも散りにけり       (9歳)

 

 体重944グラムの超低体重で生まれた凛君は母親から「ふつうの赤ちゃんの半分も

なかったんだよ」と言われてきました。私は昭和12年の生まれで体重1500グラム、

当時では無事育つか?と危ぶまれ出産届けは20日以上遅く出されました。

 まさにそれは「小さな命」であり「せっかく生きてきた」命でした。

 昭和十二年当時の日本人の男子は戦場で「捨てられる」ことが予定されている命で、

凛君の場合は 「学校」 という場で 「捨てられた」 のです。捨てられた菜の花が瓶に

よみがえったように、凛君は母と祖母のもと俳句を杖として歩きだしています。私たち

と同年輩の少年・少女たちの命をよみがえられたものは、何でしょう。

 それは、新しい日本国憲法とそれを理念とした教育にあったと思います。

 

 この本に関心をもつ契機に9日の「俳人の忌日」があり、そこで野澤節子に関連して

古賀まり子の句を一句紹介しました。『鑑賞 女性俳句の世界』の第4巻は「境涯を超

えて」と題されていますが、そのなかの野澤節子の見出しは「ひとりの奈落」であり、

古賀まり子は「いのちの句境」です。各俳人に短い経歴が書かれていますが、野澤の

経歴に「病気療養中に『俳諧七部集』に興味を持ち、」とあり、古賀のそれには「結核

療養所の句会で俳句と出合い、」とあります。

 同じように、俳人中山純子の見出しは「いのちの器」であり、解説のなかに≪十代

の終わりに発病した肺結核の療養生活のあいだに、俳句を作り始め……俳句を手応

えのある支えとして生きてゆく。生は句を生み育て、句が生を先に歩ませる、という向

日的な「句世一如」の世界である。≫

 この「句世一如」は、同様な境遇にあった野澤、古賀にもいえる言葉であり、凛君の

姿にも通ずるものです、そして俳句に関心を持つ者としてこころしておく言葉だと思い

ます。

 

 

 


『ランドセル俳人の五・七・五』 ー 4 -。

2014-04-14 20:52:55 | kaeruの五七五

 ◎ 凛君の入選。母史さんの文より。

≪ 凛の俳句が朝日新聞の「朝日俳壇」に入選したのは、そんないじめの最中

だった。三年の十二月に初入選、大人の投稿に混じっての入選(略)。翌年二月、

四年生の六月、七月に二回と入選を重ね(略)「僕には俳句がある!」と言うよ

うになった。続いて、朝日新聞の取材を受けて記事にして頂いたことが、凛の、

いや家族全員の大きな希望に繋がった。学校には俳句を一切みせないことにし

ていたが、入選のことを伝えた。喜んでくださった担任の先生が、学校でも俳句が

できそうな場面になると「ハイ、一句!」と声をかけ、凛は学び舎でも俳句を詠むよ

うになった。凛が口にした俳句を先生が連絡帳に書き留めて知らせてくださった。≫

 

◎ 長谷川櫂先生との出会い。

≪ 四年生の時、朝日新聞の招待で俳句講座に参加し、選者の長谷川櫂先生に

お会いできた。(略)先生から優しい言葉とサインを頂いた。長谷川先生との出会

いは、凛には小学校時代の最も誇らしい喜びの一つになった。朝日新聞に先の

記事が載った時は、先生から句を頂いた。

 「小さく生まれ大きく育て雲に峰」

 リビングルームの額に入ったその句を見ては、親子共々励ましを頂いている。≫

 

◎ 出版社(ブックマン社)との出合い。この本が出版される経緯について、編集

担当の小宮さんが書かれていますので、そこから。

 それは≪~ カニングハム久子先生のこと ~≫という見出しではじまっています。

カニングハム先生とは、昨日の凛君の写真「俳句についいて」に、それを差し上げ

た相手の名前として出ている方です。凛君の祖母・郁子さんの20年来の知人で、

在ニューヨークで教育コンサルタント。凛君の俳句はその先生から大きな励ましを

受けていました。

≪「すばらいい俳句を書く男の子が大阪にいます。一度会ってみませんか?」(略)

その時は正直、興味深いけれど、そういった企画のお話はたくさん頂いており、形

にするのはなかなか難しいのですと出版を躊躇した記憶があります。しかしその後、

郁子さんから送られてきた作品を拝見、「ぬかるみに車輪とられて春半分」――この

句を目にしたとき、本にしなくてはと思い立ちました。≫

【太字はkaeru】

 

このタイトルであと一回「つぶやき」たいと思います。それは私と凛君のかさなる所に

ついて、一つは超低体重児であったこと、もう一つは俳句についてです。


『ランドセル俳人の五・七・五』 ー 3 -。

2014-04-13 19:39:27 | kaeruの五七五

凛くんの「春」

 最初の春、凛くんは2001年5月生まれ、5月といえが晩春です。その時の

ことを母親の史さんがこう書かれています。

≪凛は2001年の五月、予定より三ケ月早く、944グラムの超低体重児で

生まれた。医師からは「命がもつか、まず三日間待ってください」と言われた。

 保育器のな中で、サランラップを巻かれて全身に管を何本もつけた、今にも

消え入りそうな小さい命。それが我が息子との初対面だった。≫

 

つぎの「春」。これも史さんの文章から。

≪ 四歳の時、カトリック系の私立幼稚園の入園。(略)凛の俳句にときどき「神」

という言葉が登場するのは、幼稚園での教えが大きい。また、この頃、凛はテレ

ビや絵本で俳句と出会う。私や祖父母から、俳句を教えたことはない。だが気づ

けば凛は、自分で思いを指を折らずとも、五・七・五の十七文字で表現するように

なった。凛の口から次々と溢れだす十七文字を、私と祖母は時に驚嘆し、時に涙

しながら、ノートに書き溜めていった。≫

 

春と嵐、≪凛、ごめんね、ここ(小学校)は、地獄だったよ。≫

母親の史さんは、≪凛が1歳の時に私は教職の仕事に復帰し、≫とありますが、

その人に「地獄」と思わせる学校だったのです。その有り様について多く書かれ

ています。ここでは一人の生徒の「いじめ」と担任の対応を記しておきます。

≪「先生は僕がいじめを訴えても “してない、してない” と受け付けてくれない」

「〇〇が両手の人指し指を後ろからお尻に突っ込んで、毎日僕にカンチョーする」

(この後、母親と祖母は学校ではからずも凛君が〇〇から追いかけられ教員室

に逃げ込む場を出会う、そして担任が「してない、してない」と言うのを聞く)。

子どもが訴えても教師に隠ぺいされては子どもに救いはないと、この時に悟った。≫

ただ、このあと通級指導教室の先生が「私が凛ちゃんを引き取ります」と言われ、1

年生の後半を通学することになりました。

 

「俳句」と小学校=「自然」を認める目と拒否する「言葉」。

≪毎朝、凛は祖母に連れられて、公園や野原を愛犬を連れて散歩した。草むらの

虫に目を凝らし、飛び交う蜻蛉を追い、朝露を踏みながら団栗の落ちる音を聞いた。

それらは凛の俳句作りの舞台となった。凛が感性のまま言葉を五・七・五にすると、

祖母が携帯メールに打ち込み、仕事中の私に送信してきた。(略)ある時、その俳

句を学校に見せたことがある。その教師の言った言葉は、永遠に忘れることはない

だろう。

「俳句だけじゃ食べていけませんで」。≫

 

 凛君の俳句が「朝日俳壇」に入選するのは、3年生の12月だそうです。

いじめを受けている最中です。そこのところとこの本が出版される経過に

ついて明日触れようと思います。


『ランドセル俳人の五・七・五』 ー 2 -。

2014-04-12 21:19:12 | kaeruの五七五

 大阪府岸和田市=凛くんの住んでいる街で、凛くんの通っていた小学校が

ある街です。そして、いま再放送が行なわれている「カーネーイション」の舞台

で、だんじり祭りの街です。そのだんじり祭りの日のことがかかれていますの

でそのことからふれたいと思います。

≪(五年生の6月、不登校を決めたあと=母・史さんの文章)

 そんな学校にも、凛が「一番好き」と言う友がいる。同じクラスのR君だ。

 地域のだんじり祭りの日、凛と祖母と三人で見学に行った時のことだ。はっぴ

姿で綱を持ち走る子どもたちの中から 「凛ちゃん!」 と声がする。見るとR君で

ある。R君はだんじりから離れ、見物する私たちのそばに駆け寄って来て声をか

けてくれた。

 「凛ちゃん、また、学校に来て」

私も祖母も胸が熱くなった。祖母はR君を抱きしめていた。≫

 だんじりやはっぴの友がわれをよぶ     凛 (11歳)

 

もうひとつ凛くんを励ましたおおきな存在について。

≪ショーン・ハート先生(母・史さんの文章)

 ショーンは私たち親子にとって、英会話の師であり友である。

 (略)

 ショーンはアメリカ・ロサンゼルスの出身で温かな笑顔とユーモラスな会話は凛

も大好きだ。四人のお子さんがあり、日本語も堪能で、英語俳句を趣味として詠ま

れるので、家族と共に凛の俳句の共通理解者だ。

 凛の俳句を持参すると英訳もしてくださる。ある時、ショーンが俳句や絵をCD-R

に焼いてくださった。

パソコンに疎い私にはできないことで、それは、我が家には驚異的な出来事だった。

パソコン画面に映る自分の絵や俳句に、凛は驚嘆の声を上げた。

 そして、「僕、生まれてきて良かった」と言った。

 凛の口から初めて聞くこの言葉に、母も祖母も、胸が熱くなった。まだ新聞に入選

する以前だったので、凛が自己肯定感を与えられた初めての出来事だった。≫

(太字はkaeru)

 

 「不登校」選択後、変わってきた寝言。

≪これまで寝言で、「やめて!」「返して!」と叫んでいたこともあったが、寝言が笑い

声に変わっているのに気づいた。家族も共にストレスの無い生活の中で、家の中に

穏やかな時間が流れていった。≫


『ランドセル俳人の五・七・五』 -1-

2014-04-11 22:42:16 | kaeruの五七五

 『ランドセル俳人の五・七・五』 の「あとがきにかえて」の最後に2013年春

となっていて、奥付には2013年4月18日 初版第1刷となっています。手に

しているものは2014年3月4日第11刷です。

 私はこの本がかなりの勢いで広がっていることがうれしいのです。この一

年間、本屋の俳句関係の場所に平積みになっていたので、書名の「ランドセ

ル」が記憶にはあったのですが、多分何人かの小学生の詠んだ俳句をあつ

めたものかと、勝手に思い込んでいて手にも取らずにきていました。

 

 本の最初の方に2011年9月12日の朝日新聞(夕刊)の記事が載っていま

す。「10歳のいま刻む五七五」の大きい見出し、「幼稚園から句作・・昆虫・花

…リズムに乗せ」とあり、取材を受ける日の朝、記者にみせようとつくった句

 貝見れば海の思ひ出香り立つ  があります。

記事の最初は≪俳句人口の年齢層は広がりをみせているが、朝日俳壇で入選

を重ねる少年がいる。俳号は「小林凛(リン)」。幼稚園の時、一茶の句と出合った

のがきっかけだった。≫

≪大阪府岸和田市の小学4年生、小林凛くん(本名・西村凛太郎)、~凛くんは

944㌘で、月足らずで生まれた。医者からは「3日間は生死が分からない」と言わ

れた。~小学校に入学した凛くんは、よくつらい思いをした。~乱暴な同級生につ

ねられ、たたかれ、体はあざだれけ。(母)史さんは「学校へ行かんでいい」と言った。≫

 その辺のところを本のなかでお母さんは、

≪いじめから保護されぬ無法地帯から脱出した凛は生き生きしていた。

 これで良かったのだ。これしかなかったのだと思う一方で、しかし、私は義務教育

を受けさせられない息子のリスクを思うと、心穏やかではいられない。通期途中で

見かけるランドセルの子どもたちに、家で過ごす凛の姿を思い重ね、「張り切って不

登校」の思いが揺らぐこともあった。≫

 

 凛くんの祖母の郁子さんは、昨日紹介しました

 生まれしを幸かと聞かれ春の雨 

の一句ができた時のことをこう書かれています。

≪(幼稚園のころの凛くんの俳句づくりと近隣の人とのふれあいが書かれて)~この平

穏な日々は小学校入学と同時に一変した。凄まじい「いじめ」。非道な隠蔽に終始した

担任。「地獄」にせっせと孫を送っていた悔いは今も私をさいなむ。しかし、苦悩の末に

選んだ不登校の期間は、彼にとって格好の俳句多作季節となり、癒された。その俳句を

彼の成長の証として学校に持って行ったのに、一笑に付された時、「俳句しかないのに」

と私は奈落の底に落ちた思いだった。でも、同じ小学校の子のお母さんが「おばあちゃん、

違う! 俳句しかない、ではなく、俳句がある! なんや」と励ましてくれた。

 ある夜のこと。帰宅の遅い母親を待って針仕事をしていた時、横で彼が針箱の整理を

してくれていた。いじめられてもめったに言葉には出さずに、小さな胸で耐えていると思

うと不憫で、つい聞いたしまった。

 「凛、生まれて来て幸せ?」

 「変なこときくなあ。お母さんにも同じこと聞かれたよ」。そして、凛は沈黙の後、一句。

 「生まれしを幸かと聞かれ春の宵」

 早速、仕事中の母親にメールで送る。≫


ランドセル俳人。

2014-04-10 20:26:06 | kaeruの五七五

 これは昨日の「つぶやき」の続きでもありますが、「続忌日」ではなく11歳

の少年と俳句の話です。とはいえこの本を手にしたのはつい15分程前で

すから、この内容については書けません。

 

 昨日の「つぶやき」への3人の方からのコメントとの関係で、今日のタイトル

を「こどもと俳句」にしょうと思いました。でも確か本屋で「ランドセル俳人」とい

うような名前の本があったことを思い出し、いま手に入れてきたというわけです。

この写真はAmazonからの転用です。表紙と帯に書かれていることで、この本

のおおよその内容は分かるかと思います。ここでは裏表紙の帯に書かれている

言葉を紹介します。

生まれしを

  幸かと聞かれ

    春の宵

たった944gで この世に生まれた男の子。

入学と同時に受けた壮絶ないじめ。

母は、不登校という選択をした。

学校に行けなくても、

俳句があるから 

僕は生きていける!


俳人の忌日。

2014-04-09 22:51:13 | kaeruの五七五

 四月一日が西東三鬼の忌日、七日は尾崎放哉で、八日は虚子忌でした。

それぞれのところで触れておけばよかったのですが、通り過ぎて来てしま

いました。いま歳時記を見ましたら、七日は三橋鷹女、今日は野澤節子の

忌日でした。

 私のメモとして、各俳人について記しておきます。

西東三鬼 我が町葉山が終焉の地になりました。1962年です、誕生が

1900年5月15日ですので満62歳に1月半足りませんでした。

 支那街に揺るる焼肉西東忌      /  秋元不死男

 奏でゐる自動ピアノや三鬼の忌   /  三橋敏雄

 

尾崎放哉 戦前の一高から東京帝大に、従妹との禁じられた恋、別れ。

作句、酒、妻と離別、保険会社から馘首、寺男、死ぬまで創作意欲。

生1885・1・20~死1926年。

 放哉忌竹の病む葉を虚空より     /  飯田龍太 

 長塀を猫渉りゆく放哉忌         /  新井道子

 

三橋鷹女 生1899・12・24ー死1972年。「生涯のモチーフは老いと死

の追求」だという。<堕ちてゆく炎ゆる夕日を股挟み>

 鷹女忌やをんなは遺書を書かざりし  /  糸山由紀子

 鷹女忌のすでに出てゐる油虫      /  石原八束

 

高浜虚子 生1874・2・22ー死1959年。数年前妻と鎌倉寿福寺に行った

ら丁度4月8日「関係者以外禁」でした。戒名は虚子庵高吟椿寿居士。小説

「俳諧師・続俳諧師」は割合面白かった。

 欠伸忌とおもうてもみる虚子忌かな   /  京極紀陽

 かまくらへゆつくりいそぐ虚子忌かな   /  黒田杏子

 

 野澤節子 生1920・3・23ー死1995年。俳句との出会いは古賀まり子と

似ている。 節子  われ病めり今宵一匹の蜘蛛も宥さず

        まり子  紅梅や病臥に果つる二十代

 節子の忌花前線のさきぶれに   /  長谷部信彦

 節子忌も花を貫く夕日かな     /  木原寿美子

 

【例句=『角川 俳句大歳時記 春』、『ザ・俳句十万人歳時記 春』より】