サクッと立ち読みした「芸術新潮 5月号」の特集は「福富太郎」伝説だった。どうやら、東京ステーションギャラリーで「コレクター 福富太郎の眼 ― 昭和のキャバレー王が愛した絵画」展が開催中のようだ。ちなみに、現在はコロナ禍のため休館中である。
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202104_fukutomi.html
「芸術新潮」の特集ページを捲っていると、満谷国四郎《軍人の妻》が目に飛び込み、ああ、やはり満谷の初期作品はカラヴァッジョ的だなぁ、と思ってしまった。
満谷国四郎《軍人の妻》(1904年)福富太郎コレクション資料室
写真を見ると、涙を宿す妻に注ぐ右全方からの光、妻の抑えた悲しみを映し出す白の半襟と黒の喪服、遺品を受ける白布の反射光、そして軍帽を映す軍刀の精緻な描写...。満谷はキアロスクーロを用い、その佇まいを哀しくも美しく浮かび上がらせている。
以前、山梨県立美術館「夜の画家たち」展の感想を書いた時、満谷国四郎《戦の話》について触れた。
https://blog.goo.ne.jp/kal1123/e/dbfff464192556b1cfcc00b191af757d
満谷国四郎《戦の話》(1906年)倉敷市立美術館
驚くことに、カラヴァッジョ《聖マタイの招命》を想起させる明暗の効果であり、画面構成であり、満谷はカラヴァッジョ作品を観たのではないか?と疑うほどだった。
カラヴァッジョ《聖マタイの招命》(1600年)サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂(ローマ)
今回の《軍人の妻》を見ても、やはり、満谷の初期作品にはカラヴァッジョ的なものが色濃く満ちているとしみじみ思う。美術ど素人の暴言かもしれないが、私的に、初期の満谷国四郎を日本のカラヴァッジェスキと言いたい。
満谷国四郎は、訪欧してるんで、ひょっとしたら、ということもあるんですが、、
でも、彼の作品の「長崎の人」(URL)や
緋毛氈
https://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3b13.html
をみるとゴーギャン風ですし、かなりヘテロジェーナスな画家だと思いました。
司馬江漢は何とも言えませんが、南蘋派にも学んでいますよね。秋田蘭画の展覧会でも江漢への言及がありました。
で、満谷国四郎はおっしゃる通り欧州に行っているので、妄想が膨らむのです(^^;。ご紹介いただいた作品のように、満谷の画風の変遷には驚くものがあるので、カラヴァッジョ的なのは「初期の満谷国四郎」だけなんですよね(^^;
その前にここのテーマである満谷国四郎の絵について。
私は日本の近代洋画は詳しくないので、満谷国四郎という名前も知りませんでした。先月芸術新潮5月号を読んだ時も、妖艶な絵ばかりが気になってこの絵はまったく記憶にも残らず。こちらのブログを読んで、あとから見返したぐらいです。ご紹介の「戦の話」、確かにカラヴァッジョ「聖マタイの招命」によく似ていますね。満谷国四郎が実際にこの絵を見ているのかどうか、ローマでどの辺を歩いたのか、あるいは写真でも見ているのか、分かると面白いですね(前コメントでご紹介した鏑木清方の妖魚に関する論文で、清方がドイツ象徴主義の画集を所有している写真が掲載されていますが、同様の写真でも発見されると明確になりますが)。
「軍人の妻」については、どうなんでしょう。今までいわゆる戦争画については、意識の点で避けてきたという思いがあります。藤田嗣治とか横山大観と戦争の関わりをどう評価するのかなど、なかなか難しい問題です。東京ステーションギャラリーの展覧会も緊急事態宣言の行方で再開されるのか、ちょっと微妙な状況ですが、再開されたら実物を見た上で「軍人の妻」のことも考えてみたいと思います。
では、別項目のコメントを。
①妖艶な絵のこと
芸術新潮5月号を読んで、すっかりはまってしまった福富太郎コレクションの「妖魚」「道行」をきっかけに、この1カ月間、北野恒富、弟子の島成園、ウォーターハウス、フレデリック・レイトンのことばかり考えていました。図書館でこれらの画集や関連書籍を借りまくり、ネットでも恒富の本(同じ東京ステーションギャラリーで2003年に開催された恒富展の図録)や世紀末ヨーロッパの水にまつわる妖艶な絵を集めた「水の女 溟き水より」(今はなきトレヴィㇽ発行1993)を購入。この「水の女」の表紙はレイトンの「漁師とセイレーン」で、この絵とボッティチェリの絵の共通点・相違点を考えたり、絵があるブリストルはロンドンの西170kmなので、コロナ問題が終了し海外旅行が解禁になったら、ロンドンNGやテートブリテンだけでなく、ブリストルまで行ってしまおうかとか、レイトンの家がロンドン市内の中心部にあり、公開しているのでここにも行きたい等々。ちなみに、この絵とボッティチェリの絵の共通点は漁師が似ていることの他にセイレーンの髪の毛の編み方や髪飾りが近い(他の画家も同様の髪の毛を描いていますが)、相違点はボッティチェリは美少年や大人の美女を描いても少女は描いていないこと。また、レイトンの家は下記URL参照(私はラファエル前派の絵や装飾が好きで、うちの居間のカーテンもウィリアム・モリスの苺泥棒です。一度実物のラファエル前派の邸宅に入ってみたいと思っています)。
https://art.japanesewriterinuk.com/article/leighton.html
②カラヴァッジョ原寸美術館のこと
宮下規矩郎著「カラヴァッジョ原寸美術館」、図書館に入っていたので借りてきました。前コメントでも書いた、同様の拡大図が掲載されている手持ちの3冊(TASCHENの大型本、週刊西洋絵画の巨匠38、Electa Quadrifolioの4つ折り本)や岩波ミア・チノッティ森田訳の本の拡大図版と比べてみましたので、その感想を。
まず、Electa Quadrifolioは、写真の解像度は悪くないが、どの図版も色が黄色みがかっていて実際の絵とはかけ離れているように思われる。西洋絵画の巨匠38は原寸大図版は聖マタイの召命の中央の人物2人の顔だけであるが、この中央の若者の顔だけに限って言えば、この本が最も良い図版である。TASCHENもほぼ原寸でこの顔を掲載しているが、色は西洋絵画の巨匠38の方がやや良い。写真の解像度はどちらも同程度。宮下氏の新刊ではこの2人の顔はサイズが原寸の半分程度と小さく、写真の解像度も良くない。同じ小学館なのだから、この写真に関しては西洋絵画の巨匠38の原板を使えばよいのにと思いました。
Electa Quadrifolio は色が悪い、西洋絵画の巨匠38は特定の絵だけ、ミア・チノッティの本の拡大図はTASCHENより少し小さくて画質は同程度、ということで、宮下氏の新刊との比較はともに拡大図が多数あるTASCHENとの比較ということになります。色はTASCHENがやや赤みがかっている。宮下氏の新刊で、縮尺が半分程度のものでは筆のタッチや絵具のひび割れはほとんど見えないので、原寸美術館と言いながらこの点については不満が残る(本の価格の制約から仕方がないと思うが、取り扱っている作品数が限定されているのも不満。ただし、聖パウロの回心第1作の天使とキリストの顔やクリーブランドの聖アンデレの顔の拡大図などTASCHENにない拡大図があるのは良いところ)。同じぐらいのサイズで掲載されている場合は、写真の解像度はTASCHENの方が良い(言い方を変えると宮下氏の新刊の拡大図はTASCHENよりもピントが甘いものが多い)。ボルゲーゼの病めるバッカスの顔やウフィッツイのバッカスのグラスを持つ腕の部分など、多くの拡大図では絵具のひび割れ線はTASCHENの方がはっきりしている。しかし、バルベリーニのユディトの顔のアップで、髪の毛の線や頬の絵具の筆跡はTASCHENの方がよく見えるのに、絵具のひび割れの線は宮下氏の新刊の方がはっきり出ていることは不思議である。縮尺は宮下氏の新刊の方は70%、TASCHENの方はほぼ原寸大と思われ、解像度はTASCHENの方がやや良いが、ひび割れ線についてはTASCHENの方はあまり見えない。ただし、ひび割れ線については修復後の写真ということもあるので、一概には言えないかもしれません。
宮下氏の新刊ではTASCHENの方に採用されていない拡大図も多いので、その点では価値があると思いました。リュート弾きの顔のアップは、宮下氏の新刊ではエルミタージュ版、TASCHENは個人蔵(前Met寄託)版であり、表現の違いがよく分かる(エルミタージュ版は歯が黒い、といった点も面白い)。TASCHENの大型本を持っていても、これに出ていない拡大図が欲しいと思うならば買ってもいい本だと思います。なお、この宮下氏の新刊で、ボルゲーゼのダヴィデのゴリアテの頭部の拡大写真を縮尺50%としていますが、これは明らかに誤りであり、実際は80%ぐらいです(名古屋で1年少し前に見たばかりなので、50%という数字を見てもっと拡大されていると思い、物指しと電卓で確認しました)。
③リ・アルティジャーニのこと
芸術新潮6月号、本日発売なので早速確認してきました。残念ながら私の予想は外れたようです。ボッティチェリとフィリッピーノ・リッピへの思い入れが強過ぎて、前回の話である1501年のレオナルド作聖アンナ画稿公開からフィリッピーノの死である1504年までの間のこの2人の歴史的事実を中心に、ミケランジェロのダヴィデ像設置場所検討委員会のことがメインかと思ったのですが、蓋を開けてみたら……。これ以上はやめておきます。なお、前のコメントで、検討委員会にチェリーニの父が参加していたことを書きましたが、さらにミケランジェロの宿敵バッチョ・バンディネリの父親、金工家のミケランジェロ・バンディネリ(同じ名前なので紛らわしい!)も出席していて、その意見は「ロッジアの中」。これもレオナルドと同じ意見であり、バッチョ・バンディネリが異常なまでにミケランジェロに対してライバル心を燃やすのも父以来の因縁があるのか、と思ったりします。今ミケランジェロのダヴィデを中心として、材料の巨大な大理石を巡るドナテッロの関与の可能性やダヴィデと対になっているバンディネリのヘラクレスとカクスを巡る問題(さらにチェリーニやヴァザーリも絡んだ敵対意識等)をいろいろ調べています。今まで知らなかったこともたくさんあり、いずれ機会があったらコメント欄で報告します。
本題に戻り、先日図書館でヤマザキマリの「偏愛ルネサンス美術論」という本(集英社新書2015)を借りてきて読んでいますが、ボッティチェリやフィリッピーノ・リッピ、アントネロ・ダ・メッシーナについてはこの本に書かれたことが芸術新潮のリ・アルティジャーニの元になっているようです。前コメントで書いたヤマザキマリがボッティチェリ作パラスとケンタウロス(ウフィッツイ)に魅かれているという話もこの本に出ていました。
今回の芸術新潮、美少年特集ですが(同じ特集はもう2~3回目だと思います)、カラヴァッジョの絵は取り上げていますが、ボッティチェリやフィリッピーノ・リッピは採用されず(監修、絵の選択は池上英洋氏)。芸術新潮2005年1月号「フィレンツェの秘密」の森田義之解説「Ⅷ男色都市の巨匠たち」の項に「ルネサンス美少年鑑」として、ボッティチェリ作ざくろの聖母(ウフィッツイ)の少年天使たちのことが書かれています。また、上記ヤマザキマリの本でもフィリッピーノ・リッピの描く美少年について取り上げていて、少女漫画に出てくるような美少年を描くのが特にうまい、としています(私もフィレンツェ・バディアにある「聖ベルナルドゥスの幻視」左端の少年天使2人はフィリッピーノの作品で最も好きな絵です)。この2人の絵が今回の美少年特集に入らなかったのはちょっと残念。では、長くなりましたので、このへんで。
①ラファエル前派や唯美主義はボッティチェッリの流麗な線と女性美を継承しているように思えます。むろさんさんがハマるのも了解されますね(笑)。ちなみに、その延長線上に少女漫画があると思っています(;'∀')
で、レイトン《漁師とセイレーン》の漁師は本当にボッティチェッリに似ていますね!!帽子が特に😉。ボッティチェッリが少女を描かないとのお話も、なるほど!です。天使もAngero(男)で少年ですしね。ブリストルも、レイトン邸も、ぜひ♪むろさんさんの充実の英国旅行になりそうですね~☆
②早々と図書館で借りられたなんて、羨ましいです~。TASCHEN本との比較までされたとはさすがです!!むろささんの比較検証を、買うかどうかの参考にさせていただきますね(^^ゞ
③「芸術新潮」6月号を本屋チェックしましたよ。最終回は予想外にあっけなかったですが、レオナルドの台詞はヤマザキマリさん自身のルネサンス画家たち観なのだろうと思いました。
今回の「美少年」ですが、結局選ぶ人の嗜好・美意識によるものですし、人それぞれ、やはり私の趣味とも違いますしね(;'∀')。むろさんさんが美少年ベスト10を選んでみるのも、きっと面白いのではないでしょうか??(^_-)-☆
フレデリック・レイトンの「漁師とセイレーン」のセイレーンの髪の毛の編み方や髪飾りを見ると、ボッティチェリの一連のシモネッタの絵(丸紅、シュテーデル、ベルリン、個人蔵―リッチモンドのクックコレクション旧蔵など)を思い出します。ただ、この髪型はレオナルドの女性の頭部の素描(ウィンザー城)やピエロ・ディ・コジモ作シャンティイ・コンデ美術館のシモネッタ(クレオパトラ)でも描かれているので、当時の流行りの形だと思いますが。
リ・アルティジャーニの最終回の件、ヤマザキマリの「偏愛ルネサンス美術論」を読んでいたら、ヤマザキさんは3巨匠のうちではミケランジェロはあまり好きではない、と書いていました。システィーナ礼拝堂のフレスコ画でも天井画や最後の審判よりも、側壁のボッティチェリのフレスコ画の方が好きだそうです。(私はこのボッティチェリの絵はボッティチェリとしては失敗作だと思っています。大画面は得意ではないのでしょう。また、フィレンツェを長期間離れたことも影響していると思います。)それでミケランジェロのダヴィデ設置場所検討委員会のことをテーマにするのではなく、カルミネのブランカッチ礼拝堂でのフィリッピーノ、ボッティチェリ、レオナルドの3人の話にしたのだろうと。
私が選ぶ美少年ベスト10はなかなか難しいので、好きな作品を少し上げておきます。ボッティチェリの絵では、初期の聖母子やフォルテッツア、プリマヴェーラの三美神などが好きなのですが、本当は天使の方が好きで、中でもウフィッツイの聖母戴冠の上部で輪舞する天使たちが最も好きな絵です(ただ、この絵の天使以外の人物は表現が硬くて好きではありません)。ボッティチェリの絵の魅力は薄い衣の襞の表現と思っていて、飛行する天使や三美神では、動きに合わせこの魅力が典型的に現れていると感じています。
フィリッピーノについては前コメントでバディアの左端の天使を上げたので、フィリッポ・リッピの絵で好きな作品も上げておきます。これも天使で、サン・ロレンツォの受胎告知の左に立ってこちらを向いている天使です。特に美少年というわけではありませんが、場面のテーマに関係なく、こちらを向いている表情や体形、衣の表現が気に入っています。あとは、彫刻ではバルジェロにあるドナテッロのブロンズのダヴィデ。これは芸術新潮の美少年特集にランクインしてもいい作品だと思いますが、裸体でエロチックな表現がちょっと生々し過ぎるので採用されなかったのでしょうね。
で、ヤマザキマリさんがミケランジェロ好きじゃないとは意外でした。私的には3巨匠で一番好きなんですがね(;'∀')。故にブランカッチ礼拝堂というのも合点がいきます。でも、連載が終了して寂しいですね。日本ではあまりメジャーじゃないアントネッロ・ダ・メッシーナがクローズアップされて嬉しかったし...。
さて、むろさんさんのお気に入り美少年シリーズは天使たちでしたね(^_-)-☆ やはりボッティチェッリもフィリッピーノも優美で愛らしいですし。ちなみに、サンロレンツォの《受胎告知》の天使の顔がなんだかパパのフィリッポ・リッピに似ている感じがしてしまったのは気のせいでしょうかね?(;'∀')
しかし、これほど早く行けるとは思っていなかったので、準備がまだできていません。心中天の網島も漫画版を読んだだけです(曾根崎心中も収録されていたので読みましたが、心中天の網島の方が後から書かれただけあって、ストーリーは複雑でも、より面白くなっているのが理解できました)。今後数日で心中天の網島の現代語訳や島成園、鏑木清方の出品作に関する資料などを読むつもりですが、間に合うかどうか(贅沢な悩みですね)。
なお、島成園については出品作でない作品(大阪市立美術館の「自画像」)の論文で、その自画像の背景に描かれている羽子板の人物が心中天の網島の治兵衛をモデルにしているのではないか、と書かれていました。今回の出品作である北野恒富の「道行」と弟子の島成園の関連をうかがわせる話であり、興味深く読みました。また、鏑木清方については別の出品作である「刺青の女」の論文も見つけました(こちらはまだ読んでいないのでこれから急いで読みます)。ご興味があるかどうか分かりませんが、一応参考までにURLをご紹介しておきます。島成園の論文は著作権のため図が消されているので、参考となるサイトも上げておきます。(最後のURLのサイトに出ている図のうち11枚目が「自画像」、12枚目が実際にはない痣を描き加えた自画像である「無題」)
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/records/48124
https://seijo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3999&item_no=1&page_id=13&block_id=17
https://toursakai.jp/2019/post_248/
https://toursakai.jp/2019/2_14/
http://zenkuro-fact.blogspot.com/2019/03/
今回、いくつかの論文や解説を読んだことで、美人画の画家のこともかなり分るようになりました。鏑木清方や北野恒富も、どのような絵を描くか悩んでいた時期に、上村松園の「焔」の成功に触発され、西洋絵画(世紀末美術)の影響で「妖魚」、「道行」を描いたが、文展の基準(文部省なので不道徳な絵はダメ)により落選したり、美人画はやはり綺麗な女性像でないと売れないから、これ以降はまた一般的な美人画路線に戻ったこと(芸術新潮にも福富太郎の話として、男が一緒に描かれている心中ものは美人画としては人気がないと書かれています)、恒富の弟子の島成園は同じ堺出身の与謝野晶子の影響のためか、初期の女性画家としての意地のためか、これらの路線とは一線を画し、いわゆる美人画ではないような問題作を次々と発表した(今回出品の「おんな」も再興院展落選作。また、一見可愛らしい少女たちを描いたように見える「祭のよそおい」が、実際には親の階層を反映した残酷な貧富の差を表現している等:上記URLの3番目参照)、しかし、意に沿わない結婚による引越し(中国上海等)で画業は振るわなくなった(一生涯絵のために生きた上村松園との大きな違い)などです。文展落選の話で思い出すのは、マネがサロンに落ちても、その落選作が現在では最も高い評価を受けていることです(草上の昼食やオランピア。オランピアは一応入選しましたが、非難の嵐)。福富太郎が時代に先駆けてこれらの絵を選択した眼は凄いと思うし、また、美人画よりもこういった絵が人々に受ける時代に変わってきたということも実感します。私も北野恒富の絵では「道行」が最高傑作だと思います(芸術新潮の特集号に出ている治兵衛と小春の死人のような顔のアップや治兵衛が頬被りする手拭いの顔料による盛り上げ表現にはゾクゾクするほどの素晴らしさを感じます)。そして、いわゆる美人画には未だに興味がわきません。また、島成園の作品では画力が落ちたとされる結婚後の絵でも、「上海にて」(大阪市立美術館)には強く魅かれます。半年前の大阪市美・島成園展のポスターになっているぐらいの絵なので、傑作とされているようだし、いつかは見てみたい絵です(上記URLの4番目参照)。
で、論文等のご紹介、ありがとうございました!!島成園の女性像は自画像を含め、やはり怪さがありますねぇ。一見愛らしい「祭のよそおい」の鋭い視点も流石で、女流画家ならではかもしれないと思ってしまいました。当時の女流画家たちの生き難さも影響しているのかもしれませんね。
福富太郎の炯眼によるコレクションは本当に面白そうで、観られないのが残念です😢
ちなみに、ご紹介のブログで初めてロバート・ブルームを知りました(汗)。明治の日本が生き生きと描かれ驚いてしまいました。「花売り」の菊の美しいこと!! 調べたら、ブルームがフォルトゥーニ(父)の影響を受けていたようで、ちょっと嬉しくなりました(^^ゞ
展示はいくつかのセクションに分かれていて、セクション毎に核となる作品があります。最初は鏑木清方のコーナー。福富氏が最も大切にしている画家であり、展示の中心は「薄雪」で、入口を入った正面に懸かっていました。私が楽しみにしていた「妖魚」は次の部屋。屏風なので大きく、迫力があります。しかし、同じ屏風仕立ての絵でも北野恒富の「道行」の展示と比べると、「妖魚」は部屋が狭いため、眺める場所の距離が短くて、しかも「道行」は椅子があるので座って全体をゆっくり眺めることができるのに対し、「妖魚」は近くから立って見るだけ。「妖魚」は図録の表紙にもなっているし、福富氏も「先生の名作の一つと今は固く信じている」と著書で述べているのに、展示方法がちょっと残念でした。
西の作家のセクションでは上記のように「道行」が中心作品です。椅子に座って全体を眺めたり、近づいて拡大鏡で細部を見たり、この1作品だけでかなり長い時間見ていました。前コメントでご紹介したネットで読める論文を参照しながらの鑑賞だったので、小春の数珠や治兵衛の印籠の紐が一粒ずつ盛り上げて表現されている点や左側の二羽のカラスの脚部が金の裏箔を使って精緻に描かれていることなど、この時期の北野恒富がいろいろな実験的表現に挑戦していたことも実感できました。「妖魚」より大きいためかなり迫力があり、予想していた通り、今回最も良かった作品です。このすぐ隣の小部屋では恒富の小品2点、甲斐庄楠音の「横櫛」、島成園の作品3点が展示されていたので、「道行」との比較もしやすいと感じました。「横櫛」(切られお富)は最近国立近美のあやしい絵展などで展示された同一主題の全身像と比べると、上半身像であり、顔付きもいわゆるデロリ系の絵ほど不気味ではないように感じましたが、近づいて表情をよく見ると眼がちょっと不気味な感じでした。福富氏は甲斐庄楠音や岡本神草のデロリ系の絵はあまり好みではない?ので、あえてこの絵を選んだのかと感じました。島成園の「おんな(黒髪の誇り)」も期待していた作品の一つであり、髪の毛を梳かす仕草はウォーターハウスの人魚(ロイヤル・アカデミー)を連想しました。島成園の「春の愁い」については後で松本華羊の絵と合わせて書きます。
洋画ではポーラ美術館に売却した岡田三郎助の「あやめの衣」が中心です。福富氏が手放した時の話(娘を嫁に出す気持ち)が図録解説に書かれていますが、コレクション中の洋画では最も気に入っていた作品だというのがよく分りました。
戦争画のセクションでは最後の展示が満谷国四郎の「軍人の妻」であり、この作品がこのコーナーの中心であると感じました。静かに深い悲しみを現わした印象的な作品でした。太平洋戦争のものは経験者が生存していることもあって生々しさがあったり、政治的な論議の対象になったりするのに対し、この絵は日露戦争と古いこともあるためか、その辺が多少希薄なので福富氏も最後まで手放さなかったのかと思います。なお、今回特別出品となっていた東京都現代美術館へ寄贈した藤田嗣治の「千人針」などの戦争画数点について、図録中の山下先生の総論で、福富氏の遺族が寄贈するのに当たって、戦争画の寄贈が政治問題にならないかなど相当気を使ったと書かれていて、(福富氏は2018年没なので、この話はつい最近のこと)やはり戦争画というものは現在でも微妙なものだと実感しました。
今回私が気に入った作品を上げておきます。第一は文句なしに北野恒富の「道行」、その他は特に優劣なしで鏑木清方の「妖魚」、島成園の「おんな」と「春の愁い」、松本華羊の「殉教」。以上5点の次は鏑木清方の「刺青の女」、甲斐庄楠音の「横櫛」といったところで、全て自分の趣味で妖艶な絵、あやしい絵ばかりとなりました。
松本華羊の「殉教(伴天連お春)」(下記URL)ですが、今回図書館で借りて事前に準備していた本(島成園と浪華の女性画家、東方出版、2006年)を見ていたら、行く前の日ぐらいになって急にこの絵が見たくなり、展示リストで今回の出品作となっていたので、実は最も楽しみにしていた絵の一つです。この本の掲載論文ではテーマは従来言われていた「ジャガタラお春」ではなく、当時の新作歌舞伎「切支丹屋敷」(岡本綺堂作)の主人公、遊女の朝妻(桜が満開になるのを見てから処刑して欲しいという願いが聞き届けられ、殉教する直前の姿を表現)だそうです。そして、同論文では島成園の「春の愁い」も同じテーマではないかとのこと。松本華羊の絵では荒筵と手鎖という明確な殉教表現をしているのに対し、島成園の絵ではそういった説明的な品物は(桜の花以外)全て省略されています。表情は似たような雰囲気(物憂げな感じ)ですが、この二人の女性画家が採用した表現の差が面白いと感じました(この二人は「女四人の会」として一緒に行動していて、四人で写った写真も残されています。ネットの記事を読むと、松本華羊の顔が現代的な美人で驚いたといった意見が見られます)。
http://kagirohi.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%94%BB/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E8%8F%AF%E7%BE%8A-%E6%AE%89%E6%95%99-%E4%BC%B4%E5%A4%A9%E9%80%A3%E3%81%8A%E6%98%A5
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上記の気に入った5点の作品ですが、少なくとも3点は文展、帝展などの落選作です。「妖魚」は大正九年第2回帝展出品作ですが、下記URLの東文研資料:大正九年帝国絵画番付の左上の帝展作家東京の欄に「審査員格」として鏑木清方の名前があります。「妖魚」を取り上げた図録等の解説や前投稿でご紹介した「妖魚」の論文でも当落には触れていないので、清方が審査員格であるために、この絵は当落審査対象外になったのだと思います。但し、発表当時は賛否両論で清方自身も失敗作と述べています。(下記URLの画面をクリックすると拡大されて文字が読めます。)
https://www.tobunken.go.jp/materials/banduke/807066.html
島成園の「春の愁い」も調べたのですが、出品作であるのか、落選したのかどうかは確認できませんでした。執筆時期も確定ではないようです。
前コメントでマネとサロン落選の件を書きましたが、今回私が選んだ5点もその多くは落選作(または賛否両論先品)です。時代の価値基準の変化、福富太郎の先を見る眼、あやしい絵や怖い絵が流行る現代人の趣味感覚、そして自分の好みなどを実感した展覧会でした。また、今回の展覧会へ行ったのは、4/25発売の芸術新潮5月号特集記事が全ての始まりです。それまで全く名前も知らなかった北野恒富、島成園、松本華羊らについて、何冊かの本やネットで読める論文などにより、かなり深く知ることになり、最後は実物を見ることができました。また、その関係でウォーターハウスやフレデリック・レイトンの同様な絵についても大いに興味が沸き、今は将来のイギリス旅行へ向けて、それらの画家の絵を詳しく知るための準備へと進みつつあります(ピーター・トリッピ著の分厚いウォーターハウス研究書/画集を先日入手しました)。わずかな期間でこういった一連の経験ができたのは自分でも過去にあまりなかったことのように思います。イタリア・ルネサンス、バロックや平安・鎌倉彫刻など今まで興味があった分野に限定せず、自分がいいと思ったものについては、今後も貪欲に、そして深く追求していこうと再認識したところです。
「道行」「妖魚」「おんな」「春の愁い」「殉教」...確かに妖艶な絵、あやしい絵ですね(^^;。むろさんさんのご趣味の再確認ができた意味でも有意義でしたね。
ご紹介のURLを辿って私も勉強させていただきました。この時代に女流画家たちの活躍があったなんて知りませんでしたし、各人の個性が作品にも表れているなぁと興味深かったです。そして、絵に描かれている女性の好みのタイプってありますよね、凄くわかります(笑)。文展、帝展などの選定基準とは別に、落選作にこそ、その時代の志向が現れているのも確かだと思います。特に妖艶な絵、あやしい絵って主流にはなり難いですしね(^^;
むろさんさんが関連ついでにウォーターハウスやフレデリック・レイトンに向かって勉強を始められたご様子に、好きな画家を追いかける喜びを感じますね(^_-)-☆
>戦争画のセクションでは最後の展示が満谷国四郎の「軍人の妻」
ありがとうございました!! 戦争画の扱いは現在でも難しいものがあるのでしょうね。福富太郎の眼が選んだ女性像が妖艶なだけではないことが、確かな眼を持ったコレクターだったのだろうなぁと思わせます。私もできたらこの展覧会を観たかったです😢