今日の日本経済新聞(9/5付朝刊)見開き「美の粋」を開くと、ボッティチェッリの《ラ・プリマヴェーラ》が賑々しく眼を喜ばせてくれた。今回の特集は「矢代幸雄の遺産(上)」ということで、なるほど。
恥ずかしながら(汗)矢代幸雄の大著『サンドロ・ボッティチェルリ』は未読であるが、その著書の中で、ボッティチェッリを日本の浮世絵師喜多川歌麿と対比して論じているらしい。確かに両者における髪の毛の描写と存在感は際立っているしね。
ということで、次週の(下)も楽しみだ。
今日の日本経済新聞(9/5付朝刊)見開き「美の粋」を開くと、ボッティチェッリの《ラ・プリマヴェーラ》が賑々しく眼を喜ばせてくれた。今回の特集は「矢代幸雄の遺産(上)」ということで、なるほど。
恥ずかしながら(汗)矢代幸雄の大著『サンドロ・ボッティチェルリ』は未読であるが、その著書の中で、ボッティチェッリを日本の浮世絵師喜多川歌麿と対比して論じているらしい。確かに両者における髪の毛の描写と存在感は際立っているしね。
ということで、次週の(下)も楽しみだ。
さて、この機会に矢代幸雄の英文著書 BOTTICELLI について(自分としての頭の整理の意味もあり)少し書きます。
新聞でも簡単に触れていますが、矢代が30歳で初めて英国に留学したのは今から丁度100年前の1921年。最初はロンドンNGでレオナルドの研究をしていたが、本場のイタリアへ行かなくてはダメということで、フィレンツェへ移りベレンソンの元で研究。その成果に基づき1925年に大判の英文著書 SANDRO BOTTICELLI 2巻本をロンドンで発行、その後改訂小型版を1929年に発行。日本語版は1975年矢代没後の1977年に岩波から発行(1929年版を底本にしているので、1925年判の部分拡大図は収録されていない)。
私にとっての矢代の著書BOTTICELLIですが、ボッティチェリに興味を持ってから間もない頃にたまたま1929年版を借りることができたので、全ページをコピーし、英文なのでなかなか読むこともできなかったところ、岩波から邦訳版が出たのでこれを買いました。分厚い本であり、また、当時読んでいた摩寿意善朗のボッティチェリ(1942年版や1975年頃の集英社の本2冊)、高階秀爾の「ルネサンスの光と闇」など、歴史的・伝記的事実を中心としたボッティチェリの本と比べ、美学的・審美的内容がメインだったので、日本語でも読むのに時間がかかったこと(数年ごしでやっと終了)を覚えています。
矢代の著書BOTTICELLIでの日本美術との比較については、琳派(プリマヴェーラの右下の菖蒲の花と尾形光琳の蒔絵)や歌麿、清長、春信などを論じています。この本に対する評価は、戦前の日本ではほとんど無視され、欧米の美術史研究者の間でもH.ホーンの著書と比べた時のロジャー・フライの酷評に代表されるように、あまりいいものではなかったようです。しかし、実際には1925年判の大型本が細部の拡大図を多用していることが他の研究者にも一定の影響を及ぼしていたようで、矢代より少し若いロベルト・ロンギは1927年にルーベンスとピエロ・デラ・フランチェスカの研究で矢代と同じ手法を採用しているそうです。また、この本は「一風変わった評論」という評価もされているようですが、ボッティチェリ作品の真贋判定や年代判定については、各種カタログレゾネにホーン、ベレンソン、ボーデらと並んで矢代の名前と判定結果も出ているので、相応の評価は受けているようです。ただし、欧米の研究者がボッティチェリの本を出す時に矢代について触れる箇所では、この英文著書の紹介よりも、コートールドにある三位一体の発見者:ボッティチェリ作品と初めて判定したのが矢代:としてバーリントンマガジンの1925年の矢代の論文を引用することの方が多いそうです。
この辺の矢代の著書「ボッティチェリ」に対する評価の詳細については日経新聞にも引用されている「美術の国の自由市民 矢代幸雄とバーナード・ベレンソンの往復書簡」2019年 玉川大学出版部 に収録されているJ.K.ネルソン(ヴィッラ・イ・タッティ所属でフィリッピーノ・リッピの研究者)の「日本人批評家ボッティチェリを語る」とロナルド・ライトボーン著「ボッティチェリ」(森田義之訳)1996年西村書店 の訳者あとがきに詳しく書かれています。矢代が著書BOTTICELLIを美学的・審美的観点から書いた理由は、1908年発行のH.ホーンの著書が歴史的・伝記的事実を詳細に書いたため、これに対する反発からであり、現代のボッティチェリ研究ではホーンの著書を引き継ぐ形で1978年にライトボーンがボッティチェリの研究書2巻本(後にカタログレゾネを省いた改訂版を1989年に発行。森田訳の日本語版はこの改訂版によるもの)を出しており、このような経緯と本の性質上ライトボーンも矢代の業績に対しては冷淡な扱いです。このため、森田氏の訳者あとがきでは、矢代の本(岩波版日本語訳)とライトボーンの本(森田訳)を合わせて読むことにより、我々日本人はボッティチェリの本質と全体像を知ることができる、としています。
美術史の研究書を歴史的・伝記的研究、図像学的研究、美学的・審美的研究の3種に分けると私には歴史的・伝記的研究が一番合っていると思っています。図像学的研究は元々あまり好きではありません。ゴンブリッチのシンボリック・イメージも本棚にあり、ヴァールブルク著作集のボッティチェリ関係の部分もコピーを取っていますが、ともにまだ読んでいません。高階秀爾の「ルネサンスの光と闇」もサヴォナローラに関連する部分は何度も繰り返して読みましたが、三美神やヴィーナスに関する部分は図像学的話が多いので一度読んだ程度です。石鍋氏も「一時期図像学的研究が流行ったが、今はあまりやる人がいない。絵に描かれたものの全てには(犬や猫でも品物でも何でも)必ず意味があるはずという考えは正しいとは言えない。画家のきまぐれかもしれないし、空いたスペースを取りあえず埋めただけかもしれない」といったような趣旨のことを言われていましたが、同感です。こじつければ何でも言えると思うし、図像学的研究の本はもう結構という感じです(手元にある上記のゴンブリッチやヴァールブルクの本は一生のうちには読まないといけないと思っていますが)。ということで、森田氏あとがきのように、矢代の「ボッティチェリ」の美学的・審美的研究の意義は十分認めますが、自分には少し付き合いにくい本という感じもするので、これをまた読み直して深く追求しようという気にはなりません。
また、この1年ぐらいで感じたことですが、西美LNG展に聖ゼノビウスの奇跡が出ることをきっかけに、ボッティチェリの晩年作について考えていた時に若桑みどりの書いたものを読み、矢代幸雄・摩寿意善朗のボッティチェリ評価が「ヴィーナスの誕生やプリマヴェーラをボッティチェリ芸術の最高の作品と考える故に、晩年作を芸術的に価値のないもの」とする(芸術新潮2001年3月のボッティチェリ特集)という説明が、この2人の著書について考えるきっかけになりました(芸術家としては1500年以降死んだも同然であり、我々は「神秘の降誕」とともに彼に哀悼を捧げよう:矢代著ボッティチェリの最後の文章)。小学館世界美術大全集15マニエリスム 1996年で若桑みどりはボッティチェリ作品からポントルモへの影響を論じていますが、「マニエリスム・バロックをルネサンスが堕落・衰退したもの」と見なしていた時代に矢代・摩寿意が上記の(ボッティチェリ晩年の様式変化を堕落とする)評価をしたのは当然であり、これは時代背景として世界中の全ての研究者に共通しているのかもしれません(日本におけるマニエリスム・バロック研究の第一人者として、ボッティチェリのチェステッロの受胎告知=日曜の日経新聞左上の絵 その他のボッティチェリ作品にマニエリスムの萌芽を見て、恩師でもある矢代・摩寿意の著書の時代的制約を見抜いた若桑氏の慧眼は素晴らしいと思います)。今振り返ってみると、ボッティチェリ晩年作の一部を衰退と見る考えは矢代の著書「ボッティチェリ」の限界でもあり、LNGの神秘の降誕、フォッグの神秘の十字架像、そして神曲挿絵を高く評価しているならば、聖ゼノビウスの奇跡連作ももっと評価されてもいいのではないかと、西美LNG展でこの絵を間近でじっくり眺めた経験から今思っているところです。
当時(現在もかもしれませんが)、日本人による西洋美術史研究本が受け入れられるのは難しかっただろうと想像されますね。戦前の日本での無視も有りがちですし(溜息)。でも、ロベルト・ロンギが矢代の「細部の拡大図を多用」を採用したなんて、ちょっと嬉しいです(^^ゞ
で、むろさんさんは「歴史的・伝記的研究」の方が好みでいらっしゃるようで(^^)。私も図像学的研究本は苦手で、絵画を全て図像学的に読み解くなんて無理があると思いますし、石鍋先生のお話になるほどでした。
ボッティチェッリの晩年様式ですが、確かにマニエリスム的萌芽が見られますよね。若桑先生のご慧眼を知ると同時に、やはり美術的評価は時代と共に変化するのだと再認識してしまいます。きっと、むろさんさんのおっしゃるように「聖ゼノビウスの奇跡連作」ももっと評価されるようになるのではないでしょうか?
内容は上記日経新聞連載の3回分を膨らませたような形で、関連する参考文献などを多数紹介していて、晩年までの矢代幸雄の業績や出来事とその背景を詳しく知ることができるものです。矢代幸雄の後半生は日本美術が主体ですが、本当はイタリア・ルネサンスをやりたかったこと、戦争によりそれが叶わなかったことが分かります。また、美術関係者以外でも内外の多くの人物が関わっていたり(私が知っている文化庁関係の研究者が、若い頃矢代と関係していたことには驚きました)、常識と思っていたことでも疑わしい点がある(例えばウォーナーが京都・奈良を空襲から救うのに貢献したというのは事実か?)など、戦前戦後の美術・文化財保護関係の内幕が分かります。
矢代の大判英文著書「SANDRO BOTTICELLI」1925年版3巻本(上記コメントで2巻本と書いたのは3巻本の誤りなので訂正します)については、上記コメントでホーンの著書と比べた時のロジャー・フライの酷評のことを書きましたが、これ以外の欧米での書評はほとんど好評だったそうです。我々日本人は矢代自身の書いたものやその他の本(例えば上記森田氏の著書)などで、このロジャー・フライの酷評のことばかりを読んでいるので、それしかなかったように思いがちですが、実際には好意的な書評の方が多かったそうで、こういう客観的なデータにより判断することが大切だと思いました。
また、拡大写真の多用については、上記コメントでロベルト・ロンギの例を書きましたが、ケネス・クラークやアンドレ・マルローにも影響を与えているので、この点については専門家も高く評価していたそうです。
美術史研究でも近年は「研究者のことを研究する」テーマも増えてきたようです。ある著書をより深く理解するには、執筆者の背景、立場などを知ることが(遠回りのようですが)確実な方法だということを感じました。
で、著書「SANDRO BOTTICELLI」が実際には好意的な書評の方が多かったとのお話、なんだか嬉しくなってしまいますね(*^^*)。拡大写真の多用も多くの研究者に影響を与えたようで、欧米でBOTTICELLI研究者として評価されたことも喜ばしいです。
やはり、美術史家もその著書も、時間を経ないと客観的評価はされ難いのだろうなぁと思ってしまいました。
>ある著書をより深く理解するには、執筆者の背景、立場などを知ることが(遠回りのようですが)確実な方法だということを感じました。
確かに!むろさんさんのおっしゃる通りだと思います。
今回も色々と勉強させていただきました。いつもありがとうございます!!
当方は矢代先生には、東洋美術関係、特に戦前の美術研究 掲載の 数々の論文でお世話になりました。
矢代は「大和文華館」の館長をしていましたものね。東洋美術の粋が集まった美術館のようで、私的にもいつか訪ねてみたい美術館です。
>またその事績を伝えておくことが将来の人々のためになる場合も、屡々あるような気がする
むろさんさんからご紹介のあった評伝『矢代幸雄 美術家は時空を超えて』は、まさに今、矢代の事績を伝えることが「将来の人々のためになる」ような気がしますね。
思っていた通り、1925年発行の大判英文著書 SANDRO BOTTICELLI 3巻本に使用された写真や収録されていない工房作の聖母子画の写真などが、1枚ずつ台紙に貼られた状態で保存されていました。特に目を引いたのが、ウフィッツイ美術館所蔵の聖母戴冠(1490年作、サン・マルコ旧蔵)の全体写真に鉛筆書きで10か所程度四角い枠線が引かれていたことで、これはまさにその部分の拡大写真を撮るように写真技師に指示するための写真であると判断しました(この鉛筆書きの枠線を矢代本人が引いたものであり、その現物が今自分の目の前にある!と少し感動しました)。ただ、私が期待していたのは、1925年の本に掲載されなかった聖母戴冠の部分図がこの他にも何枚かあって、矢代はそのうちから数点を選んで著書に載せたのならば、掲載されなかった分も見てみたいと思っていたのですが、保存されていた部分写真は本に掲載された写真だけでした。これは予算の制約から、本に掲載する写真をあらかじめ選んで、それだけを撮影依頼したものと考えられます。ウフィツィにあるボッティチェリ作品だけでも数はとても多いので、部分写真の撮影依頼数はかなりの枚数になり、考えてみればこれは当然のことだと思います(ウフィツィ以外の美術館等の作品の部分写真も当然掲載しますから全体ではかなりの枚数です)。なお、この部分拡大写真の撮影に関しては、上記2021年9月と22年2月のコメントで書いた「矢代とベレンソンの往復書簡」及び「矢代幸雄の評伝」の2冊にその時の顛末が書かれていて、写真技師は「矢代のうるさい指示」で200枚もの部分写真を撮ったが、「こんな面白い撮り方は初めて」と思ったこと、そして撮影料を無料にするかわりに画像の権利を写真技師側に渡し、それを利用して技師はウフィッツイの売店で販売する絵ハガキを作り儲けたこと、矢代の本が出た数年後にウフィッツイを訪れた和辻哲郎がこの絵ハガキを買い、これは矢代が提案して作ったものだろうという感想を述べたことなどが書かれていました。(最初から部分写真の権利を写真技師側に渡すつもりだったのなら、聖母戴冠の天使の部分拡大写真ももっと多く撮影依頼できたのではないか―撮影後に技師側から撮影料無料の件を提案されたのだろう、と思いました。)
この聖母戴冠の絵は天上にいる父なる神と聖母マリア、その周りで輪舞する天使たち、地上の聖人4人の3部分に分けられるのですが、私はその中で天使の輪舞が特に好きであり、他の人物は晩年作の特徴が出た硬い表現で全く好きになれません(この天使に限ればプリマヴェーラや数点の聖母子画よりも好きと言ってもいいくらいです)。保存されている部分写真は当然モノクロですが、天使の手足や顔などの描線が複数描かれているものもあり、ボッティチェリの推敲の跡がよく見えます。これは画集に載っている全体図のカラー写真ではなかなか見にくい部分であり、モノクロの部分拡大写真の利点が納得できました。ベレンソンのイ・タッティやロンドンのコートールドでも研究者用の写真資料が充実しているそうですが、東文研では矢代が構想した美術研究センターの役割がある程度果たされていると実感しました。ボッティチェリの推敲の跡という点については、1990年の聖母戴冠修復報告書(L,INCORONAZIONE DELLA VERGINE del Botticelli: restauro e ricerche伊語版、ウフィッツイ発行)に掲載されている赤外線写真などによる現在見えない部分(天使の足などが何ヵ所か描き直されている)と合わせて、ボッティチェリが何度も修正して天使の絵を描いていることがよく分かりました。もしかしたら、ボッティチェリ本人も天使は楽しんで描いていたが、父なる神と聖母及び地上の四聖人は弟子まかせだったのではないか―それほど天使は生き生きとしているのに、この6人には魅力を感じません(素人の感想です)。
今回は雑誌論文を探しに行くついでに確認した程度で、あまり時間がなかったため保存されている矢代のボッティチェリ関係写真資料を全て確認したわけではありません。特に、本に収録されていない工房作や帰属作(主に聖母子画)については珍しい写真が多いようなので、今後時間のある時に再度訪問して、手持ちのカタログレゾネ(ライトボーン、ポンズ、集英社リッツォーリのマンデル著)などと比べて収録されていないものをコピーしてこようと思っています。
私も「私の美術遍歴」と「矢代幸雄の評伝」を読んだので、矢代の写真の実物が本当に残っているのだなぁと感慨深いです。鉛筆書きの枠線だなんて、本当に実物ならではですよね(^^)。それに、拡大写真からボッティチェッリの推敲の描線まで確認できるなんてワクワクものです。
むろさんさん、本に収録されていない写真などもご覧になったら、ぜひまたご感想など教えてくださいませ!!