今日(1/7)付の日本経済新聞(日曜版)見開き「美の粋」にボッティチェッリ図版が溢れていたので驚いた。
「14~16世紀のルネサンス期、イエス・キリストの母マリアを描いた聖母像は身近な人物へと変化した。ボッティチェリ、ペルジーノ、ラファエロ、ティツィアーノという4人の画業を通してその変化をたどってみよう。」とのことで、第1回目が「ルネサンス期の聖母像(1)ボッティチェリ」だったようだ。
4人の画家の選定基準はよくわからないけど(少々面白みに欠けるかも)、ベルリンの《バルディ家祭壇画》が登場したので文句は言わないことにした。
ボッティチェッリ《聖母子と二人の聖ヨハネ(バルディ家祭壇画)》(1484-85年)ベルリン国立絵画館
記事に「聖母の硬い表情はイエスの受難、聖者の殉教を予想しているためかと思いきや、実は禁欲的なサヴォナローラの影響もあるのかもしれない」とあり、私的に、へぇ~、だった。
美術ド素人眼にはサヴォナローラの影響が現れる前の作品だと思われるのだけどね。それこそウフィッツィ《受胎告知》(1489-90年)と比べても違いがわかるし...。
いくつか気になったことがあるので、関連事項を調べてみました。
まず第一に、私もバルディ家祭壇画について、サヴォナローラの影響云々の部分は、何だこれ?(いい加減なことを書いているな) という感想を持ちました。
この絵の制作時期については、2015年5月の貴ブログ「ボッティチェッリとフィオリーノ金貨」(下記URL)でバクサンドール著「ルネサンス絵画の社会史」に書かれた1485年8月3日付けのボッティチェリに対する支払い記録が引用されていますが、この前の部分に同年2月7日付けの額縁への支払い記録があり、実際の絵の完成は1484年とするのが通説となっています。(同書のP298注14ではHorneの著書のDocument XXVに書かれた2月7日の記事は省略)
https://blog.goo.ne.jp/kal1123/e/948226e084eb1425627b8040fe2264fc
サヴォナローラがフィレンツェにいた時期をエンツォ・グアラッツイ著サヴォナローラ(邦訳中央公論社1987)で確認すると、
第一次 1482年~87年(その後イタリア北部各地で2年間説教)
第二次 1490年~(1491年サン・マルコ修道院長就任、1497年破門、1498年4~5月 火の試練・逮捕・処刑) となります。
バルディ家祭壇画が描かれた1484年にサヴォナローラはサン・マルコにいましたが、過激な説教をするようになるのは1490年夏にフィレンツェに戻ってからです。一方、ボッティチェリの晩年にかけての様式変化は1480年代の終わり頃からで1487年頃のサン・バルナバ祭壇画あたりから始まり、1489年のチェステッロの受胎告知(今回の日経に記載)、1490年のサン・マルコの聖母戴冠(これら3点はいずれも現ウフィツィ美術館)と進むにつれて晩年様式がはっきりしてきます(マニエリスムの先駆的表現とされています)。ボッティチェリがサヴォナローラの影響を受けていたのかどうかは、よく分らない問題ですが、以前の投稿でも書いたように、
1490年以降のボッティチェリはサヴォナローラ派とその反対派の両方から注文を受けている
ロンドンNGの神秘の降誕やフォッグ美術館の象徴的な十字架像のように、明らかにサヴォナローラの影響と思われる作品を残している
長兄の子が跡を継いでいる親の家に兄のシモーネと同居している(シモーネはサヴォナローラ信奉者=泣き虫派:ピアニョーネであり、破門解除の嘆願書に署名したり、処刑後には身の安全のために逃亡)
晩年のボッティチェリの工房は「怠け者のたまり場=アカデミア・デル・ショペラーティ」と呼ばれていたが、その常連の一人にサヴォナローラ反対派(愚連隊or悪臣派:コンパニャッチ)の指導者ドッフォ・スピーニ(サヴォナローラの処刑を宣告した裁判官の一人)がいた
などの事実により、画家という注文を受ける立場上、両派の人々と付き合いがあったが、1490年代の途中から「内面的には大きな影響を受けていた」と思っています。特に処刑の1年後にドッフォ・スピーニから処刑宣告の内情を聞いてからは、その思いが強くなったと思います(ライトボーンは著書の中で1501年作のロンドンNGの神秘の降誕のギリシャ文字の署名について、「サヴォナローラ信奉者であることを隠すために難解な署名をした」という趣旨の記載をしています)。
私はボッティチェリの晩年にかけての様式変化とサヴォナローラの影響は分けて考えるべきであり、1480年代終わり頃の変化はメディチの人文主義サークルが終わったことによる当然の結果だと思っています(時代の雰囲気としてルネサンスの春を謳歌するような作品は描けなくなった)。そして、サヴォナローラが1490年にフィレンツェに戻ってきて過激な説教をするようになった後、ボッティチェリの兄のシモーネが1494年頃にナポリから戻ってきて、親の家でボッティチェリと同居するようになると、この兄はすぐに泣き虫派になっているので、ボッティチェリも当然兄から多くの影響を受けたことと思います(この兄と仲が良かったことは、同じ1494年に兄と共同でフィレンツェ郊外ベッロズグアルドに別荘を購入していることからも伺えます)。私はボッティチェリが「内面的に」サヴォナローラの影響を受けたのは、この1494年の兄との同居が大きなきっかけだったと思っています。
今回の日経新聞の記事について、バルディ家祭壇画を1484~85年としながらも「サヴォナローラの影響もあるのかもしれない」という書き方をしているのは、「1482年にフィレンツェに招かれて」から処刑の1498年までずっとフィレンツェにいて、最初から過激な説教をしていて市民に影響を与えていた、とこの記事を書いた記者は思い込んでいるのではないでしょうか。グアラッツイのサヴォナローラ伝によれば、1482年~87年の最初のフィレンツェの時代では、まだ過激な説教はそれほどしていなかったようですが、ロレンツォ豪華王に招かれてフィレンツェに来たのに、教会の堕落を論じてメディチ家を攻撃するような説教をしていたために、左遷されてフィレンツェを離れることになったようです。ただ、この頃の説教はまだあまり多くのフィレンツェ市民の支持を得るようなものではなかったようなので、このことをもって1484年作のバルディ家祭壇画にサヴォナローラの影響を見るのはやはり無理なことです。その他、細かい誤り(例えばサヴォナローラの破門を1498年としているが、実際にはその前年の1497年です。ランドウッチの日記に1497年6月18日に破門状がフィレンツェのいくつかの大教会に届いたという記事がある)もありますが、これも記事を書いた記者が詳しい調査をしないで、概説書や展覧会図録のようなものを使って書いたためと思います。
次回の連載はペルジーノとのことですが、高階秀爾著「ルネサンスの光と闇」の第1章虚飾の焼却によると、「(サヴォナローラの恐怖政治の時代には)ペルジーノ風の甘美な宗教画を描いているかぎり、画家は安全であった。このような特殊な事情を考慮しなければ、1490年代におけるペルジーノの人気の急速な高まりは、理解することができないであろう」とのこと。今回のボッティチェリの回で(多少の誤りはあっても)サヴォナローラとの関係にも及んだのだから、次回のペルジーノでも少しはこの辺に触れてほしいと思っています。
むろさんがきっと、すぐれたコメントをしてくれると思って、じっと待っておりました。
ありがとうございます。
概説書やウィキ日本語版では、サボナローラが連続してフィレンチェにいたと誤解させるような記述もあるようです。
なお、昨日、モンス・デジデリオの本がフランスから届きました。
で、サヴォナローラのフィレンツェ滞在が、第一次(1482年~87年)と、第二次(1490年~)と、途切れていたことを私も初めて知りました。より過激になり戻ってきたということなのでしょうね。
そして、むろさんさんのボッティチェッリの様式の変化とサヴォナローラへの傾倒を分けて考えた方が良いというお話に、なるほど!です。確かに変化は微妙にずれているような気がします。
>「内面的に」サヴォナローラの影響を受けたのは、この1494年の兄との同居が大きなきっかけだったと思っています。
むろさん説に納得、思わず頷いてしまいましたです。
また、須藤祐孝著ルネサンス・フィレンツェ統治論 ジローラモ・サヴォナローラ説教と論文(無限社1998)では、「1482年から84年の説教は人が集まらず失敗に終わったが、84年の秋に転機が訪れ、教会の改革についての天啓を受けた」「87年以降の北部各都市での教会への神罰と改革を予言する説教は大きな反響を呼び起こした」とのこと。
1490年以降のサヴォナローラの人気は世紀末が近づいてきて、人々の不安が高まってきたことの現れだと思いますが、これに関して、高階秀爾著「ルネサンスの光と闇」の第3章世界の終わり に興味深い記事がありました。それは、①ランドウッチの日記に1482年頃から数年間不思議な事件(聖母マリアが出現したなど)が度々報告されている、②1484年は木星と土星がサソリ座で出会うという特別な年であり、世界の終わりと考える人もいた(ルターが生まれた年が1484年なので、1520年代にカトリック側では、ルターは不吉な星の出会いから生まれた偽預言者だとした。ただし、実際には1483年生まれ)とのこと。ここから見えてくるのは、世紀末への不安は1480年代頃から顕在化していて、教皇のネポティズム(1497年のサヴォナローラ破門時の教皇はあのボルジア家出身のアレクサンデル6世)やメディチ家のフィレンツェ支配に対する批判として、サヴォナローラの過激な説教が受け入れられやすい社会情勢だったということです。
ボッティチェリの全盛期は1480年代ですが、細かく見ていくと80年代前半のプリマヴェーラやマニフィカトの聖母には登場人物にあまり憂い顔が見られないのに対し、1485年かその少し後のヴィーナスの誕生、ザクロの聖母になると憂い顔が見られるようになります。1485年頃はその境目であり、パラスとケンタウロスやヴィラ・レンミの壁画には憂い顔は見られません(結婚祝いの絵に憂い顔はあり得ないですが)。この辺の微妙な変化は、フィレンツェ経済の悪化や世紀末が近いことなどの社会不安を反映しているのかもしれませんし、日経新聞での1484~85年作のバルディ家祭壇画の聖母に「硬い表情」を感じたというのも同じようなことだと思います。前投稿で「ボッティチェリの晩年にかけての様式変化は1487年頃のサン・バルナバ祭壇画あたりから始まる」と書きました。これはライトボーンの著書(邦訳西村書店1996)を受けてのことですが、森田義之氏は1480年代半ばのバルディ家祭壇画にも既にその兆候を認めています。(アサヒグラフ別冊美術特集西洋編4ボッティチェリ1988には「精神的危機と様式変化の予兆は、既に1480年代後半の宗教画―ザクロの聖母、バルディ家祭壇画、サン・バルナバ祭壇画、チェステッロの受胎告知―に、徐々に、しかし明白に表れていた」とあり、また、美術家列伝第2巻ボッティチェリ伝解説 中央公論美術出版2020にも「聖母子や聖人たちのイメージにも明らかな精神的変化―バルディ家祭壇画、サン・バルナバ祭壇画、チェステッロの受胎告知、サン・マルコの聖母戴冠などがそれである」とあります。)
花耀亭さんはバルディ家祭壇画がお好きとのことですが、実は私はこの絵があまり好きではありません。花々は精緻に描かれているが、(プリマヴェーラの花々と比べ)しつこさ、くどさが感じられること、洗礼者ヨハネの表現の生々しさ・厳しさ、聖母マリアの硬い表情などが気になり、これと同じような感覚をサン・バルナバ祭壇画にも感じます。これはヴィーナスの誕生やザクロの聖母の憂い顔にも通じる感覚だと思っています。私の全く個人的な感覚ですが、1485年前後はその辺のバランスが微妙な時期であり、ほんのわずかの違いで(私の)好き嫌いが変わるところです。サヴォナローラの過激な説教がフィレンツェ市民の間で人気になるのは1490年以降(特にサン・マルコ修道院長になった1491年頃から)なので、1485年前後からのボッティチェリ作品の変化は、上記1480年代初め頃から現れた社会不安を反映したものだと思います。
1490年以降のボッティチェリにサヴォナローラの影響はあったのか、あったとすればどのようなものだったのかについては、私がボッティチェリ作品に魅かれるようになってからずっと考えてきたテーマです。今はこのヒントを得るために、ボッティチェリ周辺の画家(特にフィリッピーノ・リッピ、ペルジーノ、ギルランダイオ―ボッティチェリとこの3人は1490年代に人気があったフィレンツェ在住の画家として、当時の文書等でよく取り上げられています)がサヴォナローラとどのような関係だったのかを確認しようとしています。ギルランダイオは1494年に亡くなるので、あまり影響関係はないようだし、ペルジーノはサヴォナローラ派に迎合して同じような絵を描いていただけのようなので、フィリッピーノのケースが最も参考になると考えています。2020年発行の中公美版美術家列伝第2巻フィリッピーノ・リッピ伝解説(荒木文香)によると、展覧会やモノグラフの出版等から「フィリッピーノの再評価は今まさに現在進行形」だそうで、また、これに紹介されている2011年の「フィリッピーノとボッティチェリ展図録」も手元にあるので、収録されている論考や作品解説からフィリッピーノとサヴォナローラ(派)との関係を考えていこうと思っています。(続く)
最後にフィリッピーノがサヴォナローラ派から注文を受けた事例を取り上げておきます。フィリッピーノは同派の有力者ピエロ・デル・プリエーゼやフランチェスコ・ヴァローリから絵の注文を受けていて、フィリッピーノの代表作である「聖ベルナルドゥスの幻視」(フィレンツェのバディア、1480年頃)はピエロ・デル・プリエーゼの注文であり、画面右下に肖像が描かれています。フィリッピーノが描いたピエロ・デル・プリエーゼとされる肖像は他にも数点あり、カルミネのブランカッチ礼拝堂壁画(テオフィルスの王子の蘇生場面の左から3人目、1482~85年)、デンヴァーのアートミュージアムの板絵(二重肖像画、1486年頃、下記URL)、ウフィッツイの三博士の礼拝(レオナルドが未完で残した絵の代わりとして完成、1496年)などです。これらの絵の製作年代を見ると、三博士の礼拝以外は全て1488年にローマへ行く前(即ちサヴォナローラがフィレンツェで人気になる以前)であり、当然ピエロ・デル・プリエーゼもサヴォナローラ派になる前です。デンヴァーの絵を見ると、フィリッピーノとプリエーゼはいかにも親しげな感じがします。二人の年齢差は約30歳で、1486年作ならばフィリッピーノは29歳です(この横顔はブランカッチ礼拝堂壁画のフィリッピーノの自画像とよく似ているので間違いないでしょう)。ピエロ・デル・プリエーゼはフィレンツェの有力商人であり、フィリッピーノにとっての大切なパトロンとして若い頃から親しく付き合っていて、プリエーゼがサヴォナローラ派になった後も変わらずフィリッピーノに絵を注文したということです。
https://www.denverartmuseum.org/en/object/1955.88
なお、このピエロ・デル・プリエーゼの甥フランチェスコ・デル・プリエーゼも熱心なサヴォナローラ派であり、(ボッティチェリの兄シモーネと同様に)教皇からの破門状の取り消し嘆願書に署名しています。また、ボッティチェリに絵を注文したり(METの聖ヒエロニムスの最後の聖体拝受、プーシキンの受胎告知)、1506年にミケランジェロ作ブルージュの聖母のフランドルへの発送に関わったりしています。フィリッピーノが1500年頃に注文を受けて描いた絵もあり、ヴェネツィアのセミナリオにある小さな三連祭壇画の両翼(我に触れるな他)で、1498年のサヴォナローラ処刑後もフィリッピーノがサヴォナローラ派から注文を受けていたことが分かります(ピエロ・デル・プリエーゼは1498年に亡くなりますが、フランチェスコ・デル・プリエーゼとはその後も付き合いが続いていたということです)。
プリエーゼ一族の館であるPalazzo Del Pugliese(1450年にピエロ・デル・プリエーゼが建てた建物)は今もフィレンツェのカルミネの東側近く(borgo della StellaとVia dei Serragliの交点)に残っているようなので、次回フィレンツェに行く機会があったら寄ってみたいと思います。
フランチェスコ・ヴァローリについては、2016年の都美ボッティチェリ展に出品されたフィリッピーノの作品、フィレンツェ・アカデミア美術館の聖ヨハネとマグダラのマリア―やせこけて骸骨のような表情の2聖人―とその中央パネルのキリスト磔刑図(第二次世界大戦で失われたカイザー・フリードリッヒ美術館旧蔵、1494~98年)がピアニョーネ=泣き虫派のリーダーだったフランチェスコ・ヴァローリの注文です。ヴァローリは1498年の火の試練の翌日、サヴォナローラが連行される直前に殺されていて、これはボッティチェリが1485年頃に結婚記念として描いたルーブル所蔵のヴィラ・レンミの壁画に描かれたジョヴァンナ・トルナブオニの反乱罪に対する処刑を主導した人物がヴァローリであり、トルナブオニ家の関係者らがその復讐のためにヴァローリを殺害しています。中央パネルのキリスト磔刑はボッティチェリが描いたフォッグ美術館の象徴的な十字架像―サヴォナローラの説教を図示したもの―とよく似た磔刑像です。なお、ジョヴァンナ・トルナブオニが処刑された時のことやヴァローリ殺害の具体的な状況はランドウッチの日記に詳しく書かれています。また、石鍋真澄著フィレンツェの世紀 平凡社2013年にもジョヴァンナ・トルナブオニの結婚のことやヴァローリ殺害のことが解説されています。このアカデミアの聖ヨハネとマグダラのマリアやSMノヴェッラ教会ストロッツィ礼拝堂壁画のマニエリスム的、バロック的作風がルネサンスの理念とかけ離れているとして、20世紀初頭のベレンソンやR.ロンギの酷評につながり、それがフィリッピーノが長い間評価されなかった原因となったようです。
>1485年前後からのボッティチェリ作品の変化は、上記1480年代初め頃から現れた社会不安を反映したものだと思います。
確かに表情の硬さは当時の社会不安の反映なのでしょうね。私の抱くボッティチェッリのイメージは「憂い顔の女性」なので《バルディ家祭壇画》にはそれほど違和感を感じなく、あの背景の圧倒的な密度が好きだったりします(^^;。しかし、その後の《サン・バルナバ祭壇画》は確かに様式の変化が顕著に見られると思うので、むろさんさんや専門家の方々の見方にうなずけます。
美術ド素人の妄想(暴論?)かもしれませんが(汗)、もしかして硬さの一因に北方絵画の影響があるのではないかと思うのです。以前拙ブログで、当時フィレンツェにあったメムリンク作品と画家たちへの影響に触れたことがあります。https://blog.goo.ne.jp/kal1123/e/c914d668a870838697dfe1d14860d341
パラッツォ・ビアンコ作品の制作年が1480-90年とされていますし、他にもフィレンッツェにはファン・デル・ウェイデンやファン・デル・フース作品もあるし、社会の不安な時期に、内省的で硬いフランドル絵画のもたらした影響もあるのではないかとも思うのです。もちろん、美術ド素人の妄想ですが(^^;;
で、むろさんさんのフィリピーノ・リッピとサヴォナローラのご考察、なるほどと勉強になりました。現代人の感覚としては(汗)、画家も仕事なのでクライアントがサヴォナローラ派か否かは問わないような気がしますね(^^;