Reflections

時のかけらたち

元旦の散歩は西早稲田あたり ・・・ walking to near shrine

2018-01-02 23:59:28 | a day in the life
元旦の日。家でお祝いをした後、近くの神社にお参りに行こうということになりました。
少し歩くけれど以前紺屋めぐりで染物屋さんを訪れたとき、帰りにみつけた神社はどうかと
探してみました。調べると水稲荷神社といって、近くに大名屋敷の庭園跡が公園になっている
甘泉園があり、そこを目指して歩きました。




紺屋めぐりの時に通った面影橋。この近くにも碑があり、歴史的な地域であることを感じさせました。
この都電にもいつか乗ってみたいな~。どんな町の風景が広がるのだろう?




水稲荷神社への入口の一つです。
































もともと早稲田大学の敷地内にあったものを移転したと書かれてありました。




甘泉園に入っていきます。











たくさんの鳥の声がする贅沢な場所でした。




















この後近くのリーガ・ロイヤルホテルに行ってお茶でもと思ったのですが、あまりに高いので振る舞いの日本酒をいただいて
シャトルバスに乗って帰ってきました。

今度は椿山荘の近くの肥後細川庭園に行ってみたいと思っています。


ネットで水稲荷神社と甘泉園あたりのところを調べて抜粋しました。


江戸時代の西早稲田地区より抜粋

江戸時代、江戸の町の北西端に位置するこの地は、いくつかの谷に刻まれた台地で、南に続く台地の末端には、
明暦の大火後に移された寺社や大名屋敷、下級武士の長屋などが建ち並んでいた。
大名屋敷は別荘的な下屋敷が多く、なかでも、現在の早大文学部の南に広がっていた尾張名古屋藩六十二万石
徳川家の下屋敷には、戸山公園という水戸家の後楽園と並ぶ最大級の大名庭園があった。
高田馬場があった北東の台地は、田畑が広がる農村地帯であった。

高田馬場は、江戸初期に、越後高田藩主で徳川家康の六男松平忠輝の生母高田殿が(茶阿と呼ばれていた)、眺望を
楽しむため遊覧地を設けたところで、高田の名はここから来たとも、戸塚村の俗称が高田であったからとも言われている。
寛永十三年、三代将軍家光は、ここに馬場を築かせた。馬場とは、馬術の練習や馬術競技、旗本たちの馬揃えを行うところ
である。高田馬場は、東西六町、南北三十余間の大きさであったという。細長く作られているのは、馬を一直線に走らせて
弓矢を射る流鏑馬や笠懸のような競技が多かったためである。

現在、甘泉園内にある水稲荷神社には、江戸でもっとも古い富士塚の遺構が残されている。水稲荷神社は古社で、かっては
富士塚とともに、早稲田大学の敷地内にあった。

甘泉園と清水家
本来の「高田の馬場」があった西早稲田三丁目の戸塚第一小学校あたりに、隣接する形で「甘泉園公園」がある。江戸時代には
徳川三郷家の一つ「清水家」の下屋敷が置かれていた場所である。水稲荷神社が残っているが、戦国時代の太田道灌と山吹の少女の
逸話が込められた場所もここである。
最初、宝永七年(1710)下戸塚村(現新宿区西早稲田三丁目あたり)の畑地七千坪が尾張徳川家に与えられた。二年半程して
大草屋敷(現新宿区富久町西北部から余丁町にかけて)の一部と相対替(交換)で大草内記の屋敷となり、約六十年程した安永三年
(1774)九月、御三卿清水家下屋敷になっている。清水家は九代将軍家重の次男家好(八代将軍吉宗の孫)によって成立し、十万石。
なお、九代将軍が家重のあと十代将軍は重好の兄家治が継ぐ。
上屋敷は北の丸(現科学技術館あたり、清水門が現存)、下屋敷が浜町(現中央区日本橋蠣殻町二丁目)にもあった。ここ下戸塚の
屋敷は清水家高田屋敷と呼ばれ、現在の甘泉園、水稲荷神社、甘泉園住宅の範囲である。少し遅れるが、北側に面影橋、神田川まで
四千七百坪余を抱屋敷として入手、屋敷地の一部に囲込んでいる。この頃になると土地所有権は幕府の力をもってしても勝手に決める
ことは出来なくなり、御三卿(田安・一橋・清水)の新任家臣たち(幕臣からの横辷りもあり)は拝領屋敷をもらうことが出来ず
抱屋敷として農民所有地を購入もしくは借入して年貢や諸役を負担しなければならなかった。現在の鶴巻町、早稲田町、榎町、天神町
若松町、原町などには御三卿家臣の抱屋敷が極めて多い。この頃、天神町で抱屋敷入手のための入札が行なわれたところ、落札したのは
参加した武家ではなく農民であった、という記録も残されている。

山吹の里に残る太田道灌伝説
都電荒川線が早稲田の終点に着く一つ手前が面影橋、堀部安兵衛の仇討ちで有名な高田馬場もすぐそばにある。「名所図会」は、流鏑馬
に励む武士の姿を描きつつ、「山吹の里」と呼ばれたこの地で鷹狩をした太田道灌の逸話を紹介している。
急に雨に降られた道灌は、農家に蓑を乞うが、農家の少女は山吹の花を差し出す。「蓑なき」ことを「七重八重花は咲けども山吹の実の
一つだになきぞ悲しき」という和歌を踏まえて伝えようとした行為だったのに、道灌が気づかず腹を立てた、という落語の題材にもされた
話である。
現在、面影橋のやや南側に「山吹之里」と彫られた小さな石碑が建っていて、古くから人が往来した交通の要地だったことをうかがわせる。
ここから橋を渡って南に向うと、高田七面堂と亮朝院の門前に出る。丸みを帯びた体つきは、これまた地蔵を思い起こさせる。

水稲荷神社
千年以上前の天慶四年、平将門の乱鎮圧で名を残した藤原秀郷の創建と伝えられる水稲荷神社は、かって江戸で一番高い富士塚「高田富士」
があったことで知られたが、早稲田大学との土地交換で江戸名物だった富士塚は消えた。天慶四年といえば藤原秀郷が平定した平将門の乱
の翌年。乱の平定を感謝して神社を建立したのだろうか、当時は勝軍稲荷などと呼ばれていたらしい。

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リーガロイヤルホテルに隣接の大隈庭園の由来は、井伊掃部頭・松平讃岐守の下屋敷にあった和様四条家風の名園を、早稲田大学創設者の
大隈重信が自然律に従い文人風に改造したもので、当時は都下屈指の名園と言わていたそうだ。とにかく早稲田周辺は大名の下屋敷が
いろいろあったみたい。
早稲田大学も大隈重信の別邸があった早稲田村から名前は取ったけれど、戸塚村に校舎はあったとのことです。きっと各藩の下屋敷が
あった場所だったのでしょうね。

Jan.1 2018  Nishiwaseda
コメント (4)    この記事についてブログを書く
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4 コメント

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Unknown (としちゃん)
2018-01-03 09:46:30
新年おめでとうございます。
ご近所に由緒ある神社があったのですね。
なかなか良さそうなところですね。
太田道灌の山吹の話もこちらなのですか。
私も行ってみたいと思いました。
ご紹介ありがとうございます!
今年も元気に過ごしましょう。
返信する
新しい発見 (カンカン)
2018-01-03 22:33:23
江戸の町々が浮かんできそうで
おもしろい場所ですね。

町中とは思えない静かな庭園でした。
肥後細川庭園と合わせて行ってみるのも
いいかもしれません。
返信する
散歩道 (あるばとろす)
2018-01-04 01:29:24
お正月にいい散歩道を見つけましたね。神社にたどり着く道も風情があります。きっとルリビタキやジョビちゃんがいますよ。
返信する
水稲荷 (カンカン)
2018-01-04 14:53:40
富田染工芸に誘っていただいたおかげです。
都会に思いがけず緑があると嬉しくなりますね。
都内でジョビはまだ見かけることがありますが、
ルリビタキにはなかなか会えないです。
今度ゆっくり行ってみます。

水稲荷という名前が珍しくて魅かれました。
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