碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
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「大豆田とわ子」のいない火曜日に考える、あのドラマは何だったのか?

2021年06月23日 | 「ヤフー!ニュース」連載中のコラム
 
 
 
 
「大豆田とわ子」のいない火曜日に考える、
あのドラマは何だったのか?
 
 
「大豆田とわ子」のいない火曜日
 
今日(6月22日)は火曜日。でも、「大豆田とわ子」には会えません。
 
松たか子主演『大豆田とわ子と三人の元夫』(カンテレ・フジテレビ系)は、先週、最終回を迎えました。
 
「大豆田とわ子」のいない火曜日に、『大豆田とわ子と三人の元夫』というドラマは一体何だったのだろう、と考えてみます。
 
正直言って、「ああ、終わっちゃったのか」という喪失感があるほど、このドラマは気になる作品でした。
 
なぜ、気になったのか? 
 
その理由はシンプルで、「見たことがないもの」だったからです。
 
まずドラマらしい波乱万丈、もしくは起伏に富んだ、「大きな物語」がありません。
 
脚本の坂元裕二さんが丁寧に描いたのは、とわ子(松)と別れた夫たち(松田龍平、角田晃広、岡田将生)の「関係性」です。
 
そして重視していたのは、登場人物たちの「対話」でした。
 
「対話編」というドラマ作法
 
このドラマは、全編が対話ベースだったと言っていい。
 
しかも彼らの言葉には隠れたニュアンスが仕込まれており、まるで警句や格言を集めた一冊の本のようでした。
 
とわ子の「人生に失敗はあったって、失敗した人生なんてない」という持論。
 
また、とわ子の親友・かごめ(市川実日子)が看破した、「(誰かを)面倒くさいって気持ちは好きと嫌いの間にあって、どっちかっていうと好きに近い」の真実。
 
このドラマで登場人物たちが発するのは、こうした単純そうな言葉です。しかし微妙かつ細やかに震動して、見る側の心にしみこんでくるように出来ていました。
 
平明にも見えるのですが、実はねちねちとしつこく、強靭な骨格を持った言葉です。
 
坂元さんは、対話の形でそれぞれの「思想」を生み出し、同時に人物の動きをそれに伴わせ、ドラマとして必要なだけの筋の面白さを組み立てていきました。
 
いわば、プラトンの著作のような堂々の「対話編」です。
 
「人生の肯定」というテーマ
 
そして、このドラマの基調には、「人生の肯定」というテーマがありました。
 
とわ子をはじめとする主要人物たちが、実際に人生を肯定できているかどうかはともかく、「人生を肯定したい」と思って生きていることは確かです。
 
しかも自分の人生だけでなく、他者の人生をも肯定しようとする姿勢でした。
 
とわ子たち4人は、自分の流儀を守ろうとするという意味で、明らかに、十分過ぎるくらい「面倒くさい」人たちです。
 
明るい暗いで言えば暗いかもしれません。
 
けれど、その暗さを土壌として、それに育てられつつ突き抜けて、人生の肯定に達しようとしていました。
 
自ら選んで1人で生きること。
 
夫婦や恋人の関係を超えて2人で生きること。
 
さらに、大切な亡き人とも、一緒に生きていくこと。
 
それらを丸ごと肯定してみせるドラマなど、やはりこれまでにはなかったのです。