経営コンサルタントへの道

コンサルタントのためのコンサルタントが、半世紀にわたる経験に基づき、経営やコンサルティングに関し毎日複数のブログを発信

■【きょうの人】 0220  啄木誕生日 ジッと手を見る  本日、ゆかりの人をご紹介

2023-02-20 06:33:00 | 【話材】 きょうの人02月

 

  【きょうの人】 0220  啄木誕生日 ジッと手を見る

 

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 啄木誕生日
 

 いしかわ たくぼく
 1886年(明治19年)2月20日-1912年(明治45年)4月13日)

 日本の歌人、詩人で、本名は「石川 一」は、結核によりわずか27歳でなくなりました。

 岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)に、曹洞宗日照山常光寺住職の父・石川一禎(いってい)と母・カツの長男として生まれました。

 1898年(明治31年)12歳、岩手県盛岡尋常中学校(啄木入学の翌年、岩手県盛岡中学校と改名、現盛岡一高)で学びました。同校の三年先輩には金田一京助が、また、10年後には宮沢賢治が入学します。 

 中学生時代に、のちに妻となる堀合節子や、親友の岡山不衣、金田一京助らと知り合うことになります。

『明星』を読んで与謝野晶子らの短歌に傾倒し、また上級生の野村長一(のちの野村胡堂)や及川古志郎らの影響を受け、文学への志を抱きました。短歌の会「白羊会」を結成したのもこの頃です。

 1901年(明治34年)12月から翌年にかけて友人とともに『岩手日報』に短歌を発表し、啄木の作品も「翠江」の筆名で掲載されました。これが初めて活字となった啄木の短歌だったのです。

 1904年(明治37年)1月8日、盛岡にて堀合節子と将来の話をし、後に結婚します。

 啄木は盛岡において落ち着いた生活が続きましたが、1907年(明治40年)1月、函館の文芸結社・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)より原稿の依頼があり松岡蕗堂らと知遇を得ました。

 1907年5月5日、函館に移り、5月11日から5月末日まで函館商工会議所の臨時雇いで生計を立てます。函館区立弥生尋常小学校の代用教員となりました。代用教員在職のまま函館日日新聞社の遊軍記者も兼ねましたが、函館大火により勤務先の小学校・新聞社がともに焼失してしまいました。 

 近く創刊される野口雨情がいた小樽日報社の『小樽日報』記者となるも、12月には社の内紛に関連して暴力をふるわれ退社しました。雨情の起こした主筆排斥運動に荷担しましたが、主筆側の巻き返しで雨情一人が退社する形になりました。

 1908年(明治41年)1月4日、小樽市内の「社会主義演説会」で当時の社会主義者、西川光二郎の講演を聴き、西川と面識を得て、釧路新聞 (2代目)(現在の北海道新聞社)に編集長として勤務しますが、上司への不満と東京での創作活動へのあこがれから、釧路を離れる決意をしました。

 1909年(明治42年)1月1日、当用日記に「今日から24歳(数え年)」と記します。『スバル』創刊、発行名義人になります。3月1日に『東京朝日新聞』の校正係となります。

 1910年5月下旬から6月上旬にかけて小説『我等の一団と彼』を執筆します。6月3日には明治天皇の暗殺を計画したとされる幸徳秋水・管野スガら社会主義者・無政府主義者が多数検挙された大逆事件が発生しました。

 1930年(昭和5年)京子が妊娠中に急性肺炎を起こし、二児を残して24歳で死去、その2週間後には房江も肺結核により19歳で急逝しています。

 啄木の詩などからは、想像のできない波乱の人生だったように思えます。

 

◆ バックナンバー

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

 


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【カシャリ!ひとり旅】 宮... | トップ | 【話材】 昨日02/19のつぶや... »
最新の画像もっと見る

【話材】 きょうの人02月」カテゴリの最新記事