旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

825 施設見学訪問(次回更新予定日 3月5日 第一土曜日)

2022-02-19 10:12:50 | 

 あれだけ芸能人を使ってコマーシャルをしていたハズキルーペは??今は何処を見てもニュウモが!いずれも必要になる年代になり、初回だけ安い!その効果は3ヶ月から数ヶ月後に?販売数1番!それよりも何パーセントが満足しているのか...次は葬式。安い初回は私が!2回目は...?満足度は❔色々と人生楽しさ一杯です😊では、

9月2日 雨/後/晴れ :昨夜スウェ-デンから来たT氏の友人が、驚いたのは旅をするのにマージャン牌を持っていた事でした。それを夜中の3時迄やりましたがT氏の一人勝ち、麻雀はポピュラーでしたが持ち歩いているとは驚きました。

 翌朝にクヌードサン氏がユースに来てくれると言うので眠いのに早から起きていました。T氏が呼びに来たので急いで下りました。ボスのハンセン氏と彼が話を!顔を見ると近寄って来て、何故か少し遠慮がちに今日会う場所と人の名を教えてくれました。それを言う為にわざわざ来られた親切に、繰り返しますが、縁もゆかりも無いユースの前で会っただけの東洋人に対して!改めて有難く感謝の言葉もありませんでした。
 その後アポを取るために電話を掛けようとデビッドに頼んだ所、ボスがいるからダメと!そこで直接ボスに了解を、そして2時に会う約束を取りました。
 昼にO氏はクリスの所へお見舞いに出、その後のんびりし過ぎて1時前にユースを出たのでした。駅に着いて施設への行き方を聞くと、英語が全く通じ無かったのです。こんなにも通じないのは初めての事でした。地図を見せて一生懸命説明をして、やっと分かったのでした。街中の人に英語が通じないとは、如何に一般の人との接触が無いかを知る事になりました。私の英語が下手!今まで通じていたので、それは無いと思います?
 見つけたのは大きなビル!親がいない子、何らかの理由で親と一緒に住め無く、そして家庭に問題がある子供達のユースペンションでした。そこは3階立てで美しく、各自が自分の部屋を持ち、見た部屋は美しく飾り付けしていました。そこの合否は後日知らせてくれるという事で、素晴らしい施設を勤められたらと思いました。帰りは疲れたのか駅までかなり遠く感じました。
 帰ったユースでは、ここを出て行く予定の3人が、ワーゲンを買う事になったのでした。私も一緒に行きたかったのですが合否判定があるので諦めました。

 今考えると、この様な判断決定その選択が、人生の全てのターニングポイントを良い方向に導いてラッキーな人生を送らせて頂いています。

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805 デンマークⅤ ニュ-ヨークからの手紙(次回更新予定日 4月17日 第一土曜日)

2021-04-03 03:59:07 | 

 写真の背景に2001年9月11日、AA11便のテロによって破壊されたWTC。その時、現実として受け取れなかったでした。亡くなった方々と比べようもありませんが、大阪営業で知っているようで何も知らなかった空港業務、ど素人の私がAAの成田空港勤務!そして退職の時に思いもしない立派なパーティーを、本当に成田のどの人にも良く受け入れてくれました。2枚の写真は私の宝物です。10年20年はアッと、そのずーっと前50年前の最早、他人事になった話を続けます...

 デンマークから送った手紙にニューヨークからの返事。それは母が教えてくれた見知らぬ甥からでした。その手紙で彼が住んでいたロンドンの住所を!友達が沢山できたのも今で言うシェアハウスで一年を過ごした事です。何度もニューヨークに行っているのに忘れていました。そんな一言お礼を言わなければならない人が一杯です。残りの人生それを少しでも返さなければと、まだまだやる事が多いです。

 朝7時20分に食堂で早目に食事を済まして彼女を待ちました。何時までも現れる気配が無いと待っていた所、食堂が閉める時間に、兄さんと2人で現れたのでした。兄さんと目ばかりあって彼女とは全くコンタクトできずにいた所、彼女が私の方へ来て何か話しました。意味が分からないのでした。何のことは無い、パンが欲しいと言っているだけでした。
 それを、きっかけに、少し話しました。そして最後にトレイを持って来た時、戸を半開きにして握手をしました。ちょうど兄さんから見ずらい位置で、軽くお別れキスをすると、昨日の夜を思い出す激しくみんなの前で応じたのでした。非常に嬉しく、そして別れるのが寂しかったです(残念ながら何も覚えていません。人生そんなものです)。
 夜、テレビで日本のサッカーチームの試合を見る事に!当時、サッカーはマイナースポーツでしたが、日本がゴールを決めた時には、日本出て長い沖村氏は目に涙を溜めていました。その他の連中は無関心に酒を飲んでいました。少しみんなの輪の中に入り難く感じた為、部屋に戻り日本に手紙を書いたのでした。
 翌日、久々の休日で、9時近くまで寝てました(若さに驚き、今や4時起き!)。しばらくすると、菊池氏が手紙を沢山持って来てくれたのでした。全部で4通の手紙が、どれも嬉しくて有難いものでした。特にニューヨークから旅のパイオニアの甥から届いた1通は特に重要でした。(その時の住所を無くして、今、後悔の念に!)
 昼過ぎに雨が降りそうな天候の中、沖村氏とプールへ出かけました。結局雨に降られて酷い目にあい、仕方なく帰りました。すると沖村氏のカメラ・たばこ等貴重品が盗まれていて、さすがに彼もがっくり落胆していました。自分自身、大金を持っていたのに、何処に隠していたのか良く盗まれ無かったと思います。この当時は、クレジットカードなるものはその存在すら知らず、社会人になってKipsCardなるものを義理で入会。アメリカに行って初めて利用、便利さが分かった程でした。

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799 青春満喫 (次回更新予定日 1月16日 第三土曜日)

2021-01-02 05:24:55 | 

 新年おめでとうございます。

  夕食後、写真を撮る事になり、初めは普通に整然とダンダン変なポーズを取り最後にはポールに登りました。それは写真が証明!でもでも合成!知っての通り(誰がや!)??そんな技術は私には無いです。若いと思っているつもりですが、一番上にいるのは誰?信じられない?無理です。?ばかりになりました。1971年の夏...
 夜はベッドで寝ながら本を読んだり手紙を書いていました。新人で年上の菊ちゃん(写真で椅子が写っていなかったら超💪力持ち!一番下でそれらしくしている人)は既に寝、他の連中は女の子と遊んでいました。
 11時前手紙も書き終えたので寝るつもりで電気を消そうと思ったのですが、みんなに止められ話しに加わりました。そして菊ちゃんを起こし、土屋氏が明日は休みなので一晩中起きると頑張って!結局、彼の頑張りのペースにはまり話を続けました。
  同僚のしのさんが彼女の話、恋愛の話などを、その後女性関係、セックスの話に話題が!そうなると菊ちゃんが中心になり大いに盛り上がりました。アルコール抜きで夜半3時半迄良く話が続いたなと!若いとは素晴らしいです。現在ワイン飲んで9時就寝、途中何度も起き、4時起床の毎日からは信じられない事ばかりです。
 次の日というよりその朝は流石に辛く、朝食前も、そして芋の皮むきが最後になる迄、忙しく働きました。昼食が済むと少し余裕が、みんなでビールを飲む事になり、10クローネは少しきつかったがこれも付き合いと支払いました。
 少し付き合いが難かった菊ちゃんは、昨夜の話で意気投合して、みんなの中にごく自然に溶け込んでいました。みんな陽気に飲んだけれど、ユースで働いて未だ5日目、忙しい一日で多少ばて気味で、既に1年程働いているような気になりました。念の為、日付を確認しましたが、やはり5日目の事でした。この短い時間でこんなんに親しくなるのは驚きです。それと毎日、日記をつけていた、当時のまめな自分に再度ビックリ!
 しかし11年前に、このブログを最初に書いた時と違って色々様々な事を既に忘れています。でも大変楽しい事が多かったなと、思い出を大事にして行きたいものです。今年は年男です。まだ簡単には死ぬ訳には行きません!このまま青春?を続けて行きますので宜しくお願い致します。誰に言っているのや!と外野からの声も無く読んで頂いて有難う御座います。 

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793 またまた野宿  (次回更新予定日 10月17日 第三土曜日)

2020-10-03 05:23:33 | 

 先の連休に京都へ墓参り!何時も様に清水寺を下りて行くと新型コロナが何処へ、記録的な人出、道路は車で渋滞していました。コロナは日本を代表したトヨタ の車「コロナ」、でも新型が付いただけで全く別物に!散髪屋でスタッフが「椅子の消毒は済んだ?」と、エプロンを毎回替えられていないのに気付き、家に帰り着ている全てを洗濯機にいれなければ落ち着かない日々を過ごしています。では、そろそろ旅の続きを...

 寒さで目が覚めました。しかし2度目の野宿のせいか前回よりは良く眠れました。二度目と言っても北欧の夏の朝はとっても寒かったです。(一度目がインパクトありすぎて、野宿を二度もやっていたとは..!)
 朝食はパンとミルクをたっぷりと、既に1年近くコペンにいて古顔の千秋氏(彼の事がどうしても思い出せません。)が歩いていたので話しかけたのでした。その時、私と同年と分かりました。こちらは暇つぶしでしたが、やっぱり明日の事も分からない私は少し悩んでいました。
 話の中で、旅を続けるのなら、今の時期が最高であると聞かされたのです。京都にいる時は、何かを決定するのを全て兄や友人あるいは親に頼っていたので、誰も頼る人が回りにいないと言う現実だけが目の前にありました。例えば、今日この場にいるのと、ここを出て行くのとは天と地程、未来が違う。自分が自分の明日の結果を出すと(当たり前)事ですが、直ぐ結果、結論が出て、それで、人生が変わる、実際そうなりました。
 明日クヌードサン氏からの連絡の結果が良くなければ早くここを出て行くことも考え始めたのでした。一日中ここにいるのも面白く無いので、少し歩いて近くの教会にいったのでした。日曜日で以前のザルツブルグの教会のイメージを期待して行ったのですが、年寄りばかりで讃美歌も良く無くて1時間ばかりでやっと終わり、ほっとしてそこを出ました。暇つぶしという事で良しとしました。(宗教心無し!)
 ユースに戻り、前庭でひと眠りする事にしました。どうも、体調が良く無いのでまともに眠る事ができませんでした。そんな中、持っていたタバコを売ることに成功。二つはイブ(偶々ユースで会って同行)とクヌードサンにあげていたので、邪魔になっていたのですが、10クローネ、北欧では特に高かったので、やっと売れたのです。非常に助かったし、嬉しかったです。(こんな事もやっていたのか?)
 ユースはこれまた満室でしたが大丈夫。とにもかくにも月曜日迄この状態が続くと云った処です。後、一泊すれば週末は終わり、ユースも空いて来ますので問題は無いと言うことですので、一先ず、安心しました。全てが初めて、可愛いい子(なくても)に旅をさせよです。

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788 ストックホルム (次回更新予定日 8月1日 第一土曜日)

2020-07-18 04:41:45 | 

 ビートたけし、矢沢永吉と同い年、「お茶碗の米一粒を残さず食べなさい!」と物を大事に、戦争知らずで高度成長期を知り、使い捨て時代、全てを知る幸せな時代を送ってきました。しかし終りが見えない新型コロナウィルスは自分自身が危なく信じられない世の中になって来ました。そして今の時代の流れについていけないで右往左往です!そんな私の若き日の話の続きを..

 50年前、ストックホルムで第一夜を部屋でゆっくり寝るとの願いは果たせずに、目が早く覚めました。旅に出て初めての一人部屋、そして良い部屋で緊張?(今から思うと単にビジネスホテルのシングル部屋)

 早速、大使館へ行くと土曜日でしたが、「手紙を受け取りに来ただけだ」と言うと受け付けてくれました。上から8-10枚目に手紙があった時は、涙が出る思いでした。大げさでなく余りに嬉しくて叫びたい気持になりました。しかし、その手紙には、小さな紙に兄が少しか書いていませんでした。もう少し何か書いてくれれば良いのにと、京都からの手紙を取りに来ただけに残念でした。(今、思うと、そんなに書く事が無かっただけでした。初めて京都を出て、受けっとった手紙その感激はスマホ時代の現在からは分かるはずが無いです。)
 取りあえずストックホルムに来た用事が済んで、当時はテレビ等で有名なコンサートホールを訪れました。ところが私の想像した所とは大違いでした。ここは、日本人のたまり場で、日本人が溢れかえっていると思っていたのでした。ここには2人がいただけでした。
 手紙を書いて出そうと思っていると、一人の日本人と出会いました。安宿で一週間目で、一日パン2個で生活をしていと聞きました。当時はそれは何でも話していました。そして、その中から色々な情報を交換できたと思います。仕事を探しているといると、やはりコペンハーゲンに戻った方が良いと判断したのでした。
 彼について図書館に行くと、そこは冷房も利いていて日本人も集まりやすいのかかなり多くいました。ここに、こんな所に、日本人が大勢いたとは、彼の友達の輪の中に入り様々な労働条件と状況を聞くことになりました。そのどれもがみじめなものであり、ここにいれば、この輪の中に入るのかと思うと耐えられなかったのでした。ただ、人は、良さそうな人ばかりでした。
 何故か、これだけ多くの日本人を見ていると、京都ホテルの方が外人が多いのではと思った次第でした。(当時、感じたまま書いています。世の中変わり、スマホを持っているだけで使えない私から見ると、日本人が豊になって他人との繋がりが無くなってしまいました。いい時代に旅できて良かったと思っています。)

 

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787 ストックホルムを目指して!(次回更新予定 7月18日 第三土曜日)

2020-07-04 04:38:45 | 

 3,928日前の第一話を1年前に再び書いたのをメールで受け取りました。「何も知らず、何も分からず、市川雷蔵とポール ニューマンが好きと言う京都人。その昔、船旅で始まった世界一周の旅に出ました...無謀にも横浜から船に乗ってソ連ナホトカへ、ハバロフスクからモスクワ、東欧を列車で通過してヨーロッパ、そしてアメリカに。それも1ドルが360円...」一年、10年と過ぎ去った時は早い早過ぎます。何も知らない私はヅート変わっていません。ただ、この一年何ができたのか考える良い機会になっています。では旅に戻って...

 海峡一つでスウェーデンが目の前、今日は1人でヒッチ、運良くと言っても1時間位待った所で50キロも進めただけでした。続けてのおじさんが20キロと言っていたのに意に反し、これも50キロ。これだけ、調子の良いのは初めてでした。(海峡をどう渡ったか?そして??ばかり)

 車が全く来ないのに参っていると、日本人、相当汚い服装ですが文句を言ってる場合では無く、まして気持良く乗せてくれました。人は見掛けによらない良い例でした。4人の日本人、私を入れると5人、途中、エンストで20分程車が動けなかった時は肩身が狭かったです。それにしても、なんと400キロも一緒に乗せてくれました。途中で、パトカーを追い越せ無かったのが面白かったり、日本にいたらホームレスと見間違うような人たちでしたが、その出会いは幸運でした。彼らが巨人ファンであった点を除けば大変良い人たちでした。江夏投手が辞めさせる迄熱烈な阪神ファンでした。

 そして、ちょっと私にとっては場違いのような宿泊場、約1000円の安さで少し居心地が悪いが素晴らしい所に泊まることになりました。今日は一日ついている、ゆっくり眠れるぞ...しかし一人部屋でゆっくり寝ると言う僕の願いは果たせずに、目が早く覚めました。旅に出て初めての一人部屋、そして良い部屋で緊張?したようでした。

 *何でもその都度メモに書いておくこと事をお勧めします!私はメモ書きのポストイットを身体中に貼らないと行動後、今何をしようとしていたか忘れています。そして何故か貼るのを忘れています?昔の事等、メモ書き大事です。年を取りたくないものです(>_<)

 *話は常に変わりますが、新型コロナウイルスの中、雨の中ゴミ収集車で働く人たちはTシャツ一枚で頑張っています。あべのマスクをしないで風邪ひかないか心配ですが、雨手当??そんなのは無いでしょうね。頭が下がります。

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786 初めての野宿を終えて!が、その前に(次回更新予定日 7月4日 第一土曜日)

2020-06-20 04:41:37 | 

 アベノマスク、首相以外に国会議員を含み誰も! !一家族2枚だけでは大家族は大変と思っていたら、一住所に三所帯、一会社、住民票の無いバイト先の管理員でも一組だけで、郵便受け1つに二枚でした。高齢者施設で使ったら小さいと...一度は見てみたい初期費用の260億円、なんと当初は466億円の予算を我々の税金で?誰も止めなかったのには驚きました。それと結果も分からない。10万円支給、日本「だいじょうぶだぁ〜」と志村けんさん言いますかね?!もう言えないでした。旅の話に戻ります...

 野宿は大変きつかった。夜は隣のカップルの物音、自分で選んだこの場所だから文句は言えないけれど、朝は早くから鳥の鳴き声、そして7月5日だと言うのに寒さで良く眠れませんでした。
 実に寒い、日本から持って行った寝袋は夏用だったのです。夏の盛りなのに秋の終わりかと、心底、冬の寝袋を持って来れば良っかたと思いました。

 朝早く起きて、お隣を起こさ無い様に、朝食(パンとミルク)を買いに行った後、前回のコペンハーゲン滞在中に大変世話になったクヌードサン宅へ電話をしました。会社の帰りに拾ってくれると言う有難い言葉を非常に嬉しかったでした。

 彼が来る迄、ユースで色々な日本人と話しができました。面白い話で盛り上がったのかと言うと、そこでの話の内容はと言うと面白みに欠け、厳しいものばかりでした。

 もう一度電話して、時間を確かめると6時に来てくれると、寝袋をさげて持って泊まる用意をして待ちました。初めから厚かましくも勿論、夕食とベッドも期待して、泊めて貰うつもりだった様でした。翌朝、庭のチェリー取って食べたのが忘れられないです。

 翌日は市内見物、今なら簡単にスマホで探索、それがガイドブックさえ持っていませんでした。得る情報の全てが駅のインフォメーションでした。カールスブルグとツボルグの2つのビール工場があり、早速二つとも行き、どちらかが飲み放題で、一方がビン1本だけでした。二つとも無料で、カナダ人と工場でビールをたっぷりと..いい気分で皆?と公園で昼食、楽しい時を過ごせました。
 その後、たまたま会ったレストランに働ている日本人から色々と現地状況を得、そして人の良さそうな日本人が、ポルノと実演を見に行こうと誘われました。 当時、人気テレビ番組11PMで北欧はポルノのメッカとして有名でした。
 翌日、家族からの手紙を受け取る為にストックホルムへ、車3台を乗り継いでデンマークのヘルシンガーに着き、ユースの場所をユーゴスラビアの女の娘に尋ねると言葉が分からず、親切に案内してくれました。(どうしてユーゴスラビアの娘か?分かりません) 
 
 

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785 ヒッチハイクはまだまだ続く(次の更新日は 6月20日 第三土曜日 )

2020-06-06 04:21:17 | 

 「爺さん100才迄、生きろよ!」ムーとして「来年死ぬというのか!!」と99才。私もそう言いたいです!(ブログ559番Ⅱで「人生100年当たり前」’19年05月18日一年前に書いたのがメールサービスで!)

 ヒッチハイク!誰が?50年も前に、ヒッチハイクを自分が??信じられないです。始めての女性ドライバー、残念ながら短い距離でした。その後は、車は殆ど来なかったです。その後、止まってくれた車は2台、同じように短いものでした(TAXIでもないのに二台も止まってくれたのに距離が短いなど厚かましくも良くそんな事を!)。3台目でやっと少し遠くまで乗れましたが、その後まるっきり車が来ない田舎道になりました。人も全く通らないで、広々とした素晴らしい景色を見て何もしようがなかったでした。(そんな平和な一日、時間が羨ましい!)

 歩くには次の町迄ほど遠く、何もすることなくズート立っていたのでした。(こんなのんびりと旅してみたいのに、その余裕もありませんでした。)これは辛い、どうしようかと思っていたら車が一台。それも3時間も乗せてくれたのでした。大感激、大助かりでした。しかし3時間も同じ車にいると話することも無くなって、それはそれで大変気まずい事になりました。眠る訳にいかないし、眠いのでどうしようも無く大変でした。その後、2台の車に乗り、可愛い娘に親切にしてもらい別れるのが辛かったですが無事にコペンハーゲンに到着。いつもの様にユースへたどり着き行きました。

 今度は満室と聞かされてガックリ、時間も遅く野宿を覚悟しました。初めて野宿をするのが不安で、どうしようかと思っていました。同じ様な米国人がいて、近くで野宿して良いかと頼み、良いと言ったので助かりました。寝袋での野宿は大変心細かったのです、それも人生初めてのことでした。(50年後もその情景を思い浮かべます)

 ただ、夜中になると、女の子を寝袋にいれてガサゴソと、私の事は気にせずに景気良く音を出していました。夏物の寝袋で寒いでしたが、そのうち疲れ果てて寝てしまいました。

---まだまだ続くのは出口の見えない新型コロナウイルスです。いつまで続くか分かりませんが、そんな事あったなあといえる時もキット来ます。今は辛抱辛抱、残念ながらゴールはウィルスと共存となるでしょうね。

 本日6月6日、安倍のマスクがまだ届かない、同じように国会議員の誰も安部のマスクしていない。これは我慢できません。事業費約260億円、税金の無駄遣いです!

 

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784 やっと北欧の入り口へ・・・コペンハーゲン(次回更新予定 5月2日 第一土曜日)

2020-04-18 05:12:00 | 

 ユースの朝はめちゃめちゃ早く、私も江戸時代並みの朝6時30分には出発。駅まではバス、3キロ程歩いた後、合計20キロを3台の車と、良く短い距離を3台もタクシーのように乗せてくれました。途中で地図は落とし、ひどい状況に参りました。
 同行したイブは荷物に付けたフランス国旗のせいで車がつかまると、 勿論、私の荷物に付けた未だ珍しい日本の国旗が物を言ったと思うのですが、いらいらしました。
 そして老人の車が前に、親切にもコペンハーゲンのユース迄乗せてくれました。しかし満室、あちこち彼が電話してくれましたが、何処も一杯でした。 もうどうしようも無いとあきらめていたら、驚くことに彼が家に泊めてくれると言ったのでした。
 仕事があるのでここで待ってくれと、変な人だけれど他に手だてはないと待ちました。北欧の8時、マダマダ明るかったのですが未だ来ないので、あきらめてかけていたら、やっと来てくれました。ただ彼が女性っぽい優しさで少し危ない人と思っていました。(今と違い欧州は男色の人が多いと言う事が、思い過ごしでした。)
 翌日、町中から少し離れているので、バスで中心街に行きました。デンマークと言えば人魚姫、思ったより像は小さいかったのを覚えています。日本出てから20日が過ぎましたが、落ち着いて観光したのは始めてでした。戻ると、庭にテントを張るからそこで寝て欲しいと言われたのでした。私は屋根さえあればそれでいいと思ったのですが、イブがテントがいやだと言い始めて、結局リビングのソファーベッドに寝られる事となりました。
 自分を主張するのがフランス人気質だと感心しました。(彼だけかも知れない?フランスの人が読んでるはずが無いけど御免なさい)夕食は鶏肉を御馳走になり、とっても美味しくてもっと欲しかったけど何故か遠慮しました(京都人気質?)。そして直ぐ寝るつもりが夜遅くまで話しました。奥さんがとても優しい人で、幼稚園で働いて、又、福祉関係に詳しい事を知って私の勉強目的がかなえられるかも知れないと、取りあえずストックホルムに行って帰って来ようと思ったのでした。
 翌朝、息子さんが用意した朝食は簡単でしたが、美味しいパンで久々にたっぷり頂きました。そして、親切にもユースに電話をかけて問い合わせもしてくれました。そうこうしている間に昨日のおじさん(ここで老人から訂正)が起きて来ました。そして、親切にもユースに送ってくれました。奥様が欧州に行った目的をかなえてくれたのは後の事。

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783 ヒッチハイクに初挑戦 (次回更新予定は第三土曜日 4月18日)

2020-04-04 05:07:03 | 

 朝7時前からベッドのキシム音で目が覚めていました。昨夜、親しくなったフランス人のイブと一緒にユースを出てヒッチハイクに初トライ。電車とバスを乗り継いで、途中、バスを乗り換える場所を間違い、結局、1時間程ロスして途中からは歩いてアウトバーンに行きました。
 しかし車が止まってくれずに1時間程立ちっぱなし、やっと止まってくれたワーゲンが二人を乗せて、初ヒッチハイク成功。色々座席に物が、それを片づけて私のリュックは大きく重いでしたが、 スペースを確保して本当に親切でした。ただ後ろの座席で話すことも無く、眠くて仕方がなかったでした。
 12時を少し過ぎてハンブルグに到着、地下鉄に乗って駅からかなりの距離をユース迄、歩きました。 ここ数日、色々あり動き過ぎたので、ユースでゆっくりすることにしました。始めて日本人が誰もいない平和な所でのんびりした一日でした。
 翌日は比較的に早く目が覚めたのでしたが、考えられない7時過ぎに、殆どの人は起きていました。現在目覚まし無しで、4時過ぎに起ているのに、若かったのでした。ベットのカーテンを開けると友人になったイブが笑って手を振っていました。
  人種も雑多でモロッコ人と一緒にパン、コーラで朝食を取り、イブと町に出て、立派な教会まで行きました。塔に登ると言うので仕方無く付き合いましたが料金を払った割には、スモッグで薄汚れた光景が見えただけでした。恥ずかしい事ですが沢山の日本人が落書きをしていました。
 売春街で有名なレパーバンに行こうと思ったのですが道を誤ったのか、昼間なのか、さすがに閑散としていました。セックスインフォションなるものもありまして沢山のスットリップ小屋があり客引きが今なら3マルク夜は10マルク掛からと日本語で誘っていました。どれくらい歩いたかは分かりませんが、日本を出て、僅かなのに何故か懐かしのJALを見て中に入ると、私のような日本人ばかりなのか対応の悪さと無愛想なのでがっかりしました。
 次の日、イブが起きるのを待ってからアウトバーンへ、彼の後に付いて行かないと道が分からないと言う情けない話でした。そこで彼と少し離れて立つと、スポーツカーが直ぐに止まってくれたので、イブには悪いと思いながらリューベックへ先に行きました。
 英語が話なせず言葉が通じませんでしたが、親切にも駅まで送ってくれました。駅からユース迄は、その身なりで行く方向も一緒のカナダ人と行きました。明日は日曜日なので、もう少しで北欧の一角コペンハーゲンですが、今日はのんびりと洗濯にすることにしました。
 翌朝は雨が降って嫌な一日でした。カナダ人との真面目な話にイブが入って来て天皇陛下を、ヒロヒトと何度も呼び捨てにするのにはいささか閉口しました。自身、ファーストネームで呼ばれ慣れてないせいで、その時は自分も馬鹿にされているとただ単に腹がたちました。(5時にUPしていたつもりでした。済みません。)

 

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781 やっと着いたヨーロッパ(次回更新予定 第三土曜日3月21日)

2020-03-07 05:00:00 | 

 今なら簡単に欧州迄、半世紀前の私は横浜から 船でソ連ナホトカへ、そこから列車、ハバロフスクから飛行機、モスクワから列車、ウィーン経由で又列車でフランクフルトへ、航空機でストックホルムへ飛ぶというプランでした。そもそも航空時刻表をウィーンはViennaだからfromVを見なければならないのに、恥ずかしながら英語力の無さfromW、Wien発のスチューデントフライトが無いと思い、列車で一番近いフランクフルト迄行く事になったのです。
 間違いばかりの旅、その都度誰かに助けて頂き、良い方に行くという幸運にズート恵まれました。結果、最悪に落ち込んだ時、これ以上落ちる事は無い、それ以上に悪くなった時は、その時は最悪では無い事と気付いたのはズート、ズート後の事です。そういう訳で間違い失敗した時はいつも最悪でした。
 ウィーンでは重いリュクを預けようとしたのですが、初めて見たコインロッカーの使用方法が分から無い!今時そんな人はいないと断言します。恥ずかしながら50年前の私は、その前でどうしようも無かったのです。たまたまいた画家の古屋さんに助けてもらいました。今度はリュクを取りに行くと、預けたのが無い!途方に暮れていると、隣に鍵も掛けずにリュックが、嘘のような間違いで良く気付いたものです。一事が万事で、のどかで誠に安全な良い時代でした?
 宿泊は、ユースホステルリストの中からウエストキャンプ場のバンガローに実に安く泊れました。列車の時刻表を見る為に西駅に行き、別れて数日しか過ぎていないのに同行してきた人たちに会い嬉しかったとメモに...
 戻るとアメリカでバイト生活をしていた日本人から情報を得、大変貴重で有難かったです。もう一泊しようと思ったのですが満室で、雨の中ホステルガイドを手に同じ日本人、足立さんと近くのユースに行くと一発OKでほっとしました。
 4時迄部屋に入れないので、風体が異様な日本人と町を歩いて食べたフランクフルトが美味しかったとメモに残っています(どのような風体なのか残念ながら覚えていません)。町では、ここでも船で一緒だった人たちに会って嬉しかったのでしたが、日本人の行く所は限られていたなと思いました。
 広い道路を渡る時に右見て左を見るとすぐ近くに沢山の車が突進して来るのに驚きました。飛んでも無く危ない、ここは車は右側通行だったのです。田舎者丸出しですが何もかもが初めてでした。町中を歩き、公園のすばらしさは格別で緑と鳥の多さにも大変驚きました。
 ユースで英国人が私の持っているニコンカメラを褒めてくれたのを嬉しく良く覚えています。カナダの教師、パキスタン人と一緒で、そこでの話で北欧での労働の厳しさを知りました。これから旅をするうえで色々な人たちを会いますが、一応私のつたないYMCA英語も通じると確認して、まずは一安心。

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780 大陸到着そこは社会主義国でした (次回更新予定 第一土曜日3月7日) 

2020-02-15 05:50:15 | 
 '71年6月11日ソ連ナホトカにに3時に到着5時下船、さっそく町を見学。山が海に迫って、そのわずかな所にアパートも多く建っていました。道路は悪く、日本が戦中に使っていたような車が走って、酔っ払いがいました。先ず、その貧しい環境に驚かされました。とても社会主義の一等国とは思えないものばかりでした。そして肩に機関銃を下げた人がいて、写真を撮るのも難しい雰囲気でした。食事は混んでいるにも関わらず約1時間とゆっくり。ソ連人のむっつりとした無愛想さとともに散々でした。
 ハバロフスク迄列車で、線路沿いの村はもっと酷くて、平屋建てのトタンでできた家が殆どでした。冬の寒さに耐えれるのか?4時頃にもかかわらず薄暗く、どの家も電気は全く点けていなかったでした。それに車も殆ど無く、どの道も相変わらず凸凹でした。昼食後、空港で出発を約2時間程待ちました。とメモに...
 そして生まれて初めて乗る飛行機でモスクワに!でも機内の送風口から白い煙の吹き出しにビックリ。機内食は無くて、お茶と菓子のような物のみ空腹感を覚えました。到着したモスクワはナホトカやハバロフスクとは大きく違ってビルが沢山ありましたが、大通りを外れるとやはりみすぼらしい家がありました。
 ホテルでは柔道家の村山由行さんとの二人部屋で少し落ち着きましたが、紅茶の砂糖が硬くて溶け無い、その硬さだけは鮮明には覚えています。又、トイレの紙がツルツルで薄くて丈夫、水に無事流れるのかと余計な心配をしました。そして人間も硬い、それが印象に残ったようです。
 翌朝、町に出ると長い行列が幾つも、何か買い物でもしている様でした。天気は変わり易く、曇り後、快晴後、小雨。そんな中、モスクワ川(正式名称?)で遊覧。今まで見たことの無い汚い色の川で、驚いた事に、その川沿いに日光浴をしている人が多くいました。そして乗り場は何処も一杯の人でした。
 下船後、地下鉄を利用してホテルへ、途中で「買いたいセイコー」と言うロシア人に、真似をしてサングラスを手にして「売りたいグラス」と皆の笑いを...
 その後、欧州旅行が三度目と言う画家の古屋さんが旅の逸話を披露。印象に残っているのは欧州を描いた絵画が良く売れるので着いたら忙しいと、その経験談と裏話の楽しい話を聞く事ができました。
 ロシアの万博に行ったと、どうにもどんなだったか思い出せないです。出国は入国に比べ簡単でしたが、ワルシャワで夜 列車に検察官が乗り込んで来たのを何故か覚えています。どれもこれも多くがメモ日記を中心に書いていました。
ーーーーーーー
後書き、退職後この旅話を週一で、良く書いていたなと思います。でなかったら殆ど忘れています。当初は文の長さが分からないので1500字に決めていました。その後、鬼籍に入られた高校の古典の水谷先生に教えを請い、そこで1100字前後がその当時の新聞のコラム欄で読みやすいと知りました。その話を聞く迄の当分の間、字数が多くなる場合もあります。現在は二週間に一度、添削して読みやすくしたいと思いますので、宜しく付き合ってくれたら嬉しいです。
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779  出港と別れそして船の中 (次回更新予定 第三土曜日 2月15日) 

2020-02-01 04:45:40 | 
 真っ暗な4時起床、7時30分横浜ホテルプリンス出発。旅慣れしてない、と言うより全く初めての一人旅が始まりました。黄色のリュックでサイドバックが付いた、その頃普通の新品の大きなリュックを背負って船に乗りました。こんな重いものを持って、これからやろうと思ってもいないヒッチハイクを、メモ日記を自分で読むと忘れている事が沢山ありました。今や、そのメモもどこにあるか分からないほど、大きな??家に住んでいます?
 これから経験することは全て人生初、船の別れがこれ程寂しくて心ぼそいとは、こんなにも長く家族と別れる事自体初めてでした。母と兄にテープを投げて、そのテープが切れて行く寂しさと不安さは思い出しても涙が出てきます。そのテープは誰から渡されたか等、殆どと言うよりまるっきり忘れていました。
 母と一緒にどうホテルから港迄 、兄が 何時来たのか覚えていません。ただテープが切れて自分一人になったと言う実感だけです。その二人の姿が見えなくなる迄、別れを...日記を書いて本当に良かったと今思います。
  船室に入ると、ベットが左右上下で4つありました。何か映画で見る古いタイプの潜水艦の内部のようで、ドアが頑丈だったのを記憶します。その部屋の最年長者は柔道4段の村山由行さんでドイツに武者修行。総額35万円で旅をしようとしている築山由雄さん、そして大塚栄一さんでした。他の部屋の人ともすぐ親しくなり、夜遅くまで話をしました。と日記に。 運動はと言うと食堂迄の往復でしたが、食堂がどんなだったか、まるっきり何も覚えていないし、忘れてしまった事ばかりでした。
社会主義国ソ連での入国検察が厳しいと言うのでお金を丸めて歯磨きチュ-ブ(当時のチュ-ブは後ろが開きました)の中に全財産を入れてびくびくしながら、緊張した顔で現在だったら絶対見つかると思うのですが無事通過。いい時代でした。西も東も右も左も上も下をも分からずおっかなびっくりの若かった20才、京都を出たのが初めての旅が始まったのでした。
旅で会う人、殆どが一期一会でした。そして、父に二度と会えないとは...、帰国後、最も旅の話をしたい父が亡く、帰って1年後、母が追うように亡くなるとは、まるっきり考えもしていませんでした。両親にはこの旅の話を一切していない事を悔いています。
ーーーーーーーー
 後書、どう京都を出て、又、横浜ホテルプリンスの予約は?本当に世界一周をやったのか?村山由行さんの事は懐かしく名前を、ただイメージだけ思い出します。多分自分の事で精一杯で、皆と、どう分かれたのか?殆どの事はメモ日記があるから書けたのです。??ばっかしです。ただネットは凄いです、姓名だけで50年も前の人が分かりました。新シリーズとして添削して書いていきます。再度、連載するように言って下さった山僴居さん、本当に有難うございます。
 
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778 ヨーロッパを目指して(2009/10/09第2話添削 )次回更新予定 第一土曜日2月1日

2020-01-26 16:59:57 | 
1971年6月、一人の学生が横浜から船でソ連のナホトカへ、約2週間後、フランクフルトで京都人に会う迄、京言葉を話す事さえ知らなかった私でした。欧州、そしてアメリカと世界一周して約2年後帰国。親、兄姉に頼りきっていた人間が、この旅が一生を決める事とは...
 当時は高額で航空機利用は考えられず、安い船でオーストラリアに行く予定でした。折悪く郵船が運行を停止、計画を変更してソ連のナホトカ迄船で欧州に行く事になりました。
 大学を長期間休むなら退学しなければならなかったので、休学手続きを、理由付は福祉の勉強で北欧スウェーデンへ。全く、いい加減でした。当初二人で渡航するつもりで計画を、結果一人旅になりました。
 旅費はバイトで、高校の友人が26,000円の月給で働いている時に、月平均60,000円、夏と冬は阪神百貨店の配達で、その他は短期で色々やりました。面白かったのは時代祭で宮川町に雇われた女絵巻物で旗持ち、1日1,400円昼食込み、70年の万博ではガーナ館で、手取り額が良い死体の処理以外何でも、今や貯めるのが難しい80万円を手に旅に出ました。
 海外持ち出しドル枠が500ドル、出発時に1,200ドルなり、1ドルが360円。日本に帰って来た時が、1ドル305円になっていました。50年前の事で日本円の海外持ち出しは確か3万円?今や余りに低いので不確かです。
 何年も経ってクレジットカードを初めて得たのが航空会社で働く様になってからでした。義理で入った近畿日本ツーリストのキップスカード、今や誰でも持っているモノだとは想像もできない時代でした。
 続けて余談ですが、クレジットカードを使うようになって、カード会社から「昨日ダラスで2度20万円を使ったか?」と自宅に電話がありました。まだカーボン用紙を使っていた時なので色々ありました。渡航前、YMCAで英会話??護身として少林寺拳法を?これは役に立たないで「生兵法は大怪我の基」を肝に銘じる事もありました。
 出発は横浜からで、当日、母と東京から来てくれた兄が送ってくれました。母が横浜のホテルで荷物を運んだボーイにチップとして千円手渡したのには勿体ないと思ったのを覚えています。
 何も知らないから、又、何も知らずに良く旅に出たとツクヅク思います。目の前の事しか考えていない、何も知らない事が強いってあるんですね。若いってつくづくいいものだ、又、怖いもの無しだと実感しています。
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 競え誇れる能力があると自認しています?その能力、忘れる力をこの頃、限りなく発揮しています。その昔の時々のメモが何処に行ってしまったのか?探す気力も無く第一話を読み直してみて、忘れないようにとブログにしました。が、退職後高々10年経つと忘れてしまっていることが多く、又、思い出す事も少しありました。山僴居(さんかんきょ)さんからの「旅行話をもう一度!」との後押しもあって、有難く再度、添削して新シリーズとして再度書く事を始めましたので宜しくお願いします。
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442 友、遠方より来たる (毎土曜日に更改)

2015-11-21 05:03:49 | 
 嘘のような自分では信じたくない程前、ほぼ45年前にロンドンで同じFLAT(アパート)に住んでいた二ネットが33年ぶりにスイスから日本にやってきました。

 約25年前にジュネーブを訪れた時に、私の許可なく娘にファーストキスをした、お茶目なジェロームが、現在33歳になって親を日本へ連れてきました。彼は何度も日本に来た事があるという事で、広島、福岡とJRで廻るという事でした。スイスファミリー、いい響きです。あったかい家族を感じました。

 彼女とロンドンのパブで、お互いお金が無いので毎夜ハーフパイントのビールで2時間以上も話をして粘ったのは、そんな昔と思えないけど古い話です。

 京都からの日帰りで大阪に来ましたが、事前情報で、彼女が太って歩くのが辛そうと聞いていましたので、又、バイト慣れした介護かと案じていました。

 大阪らしい、日本に来たと感じる所、スイスに全く無い場所に案内しようと考えて、梅田から通常だったら地下鉄を利用しますが、御堂筋をタクシーで南下しました。
 窓から左手に市庁舎を見て、大阪の素晴らしい印象を初めに植えつけ、銀杏並木の車の中でジェロームの子供の頃の写真を見せ心斎橋大丸前で降りました。

 先ず、人の多さで驚かそうと心斎橋筋に、余り驚かないのは、既に体験済みの京都の人の多さと気づき、二ネットも長旅の疲れも取れて元気そうなので、アメリカ村に行く事にしました。三角公園でライブを、ジェロームは靴屋で珍しそうに見ていました。
 再び、心斎橋筋を戎橋へグリコの大看板、道頓堀で2隻の船が交差してジャズを、そして「豚まん」が有名な551の蓬莱の本店で豚まんを食べてビールで一休み。道具屋筋を見学後、難波グランド花月前でゆるキャラのキヨシ人形と写真、世界に誇る回転寿司の考案店の元禄寿司を見て、パチンコ店の中に入り騒音を体験。

 夕食は昔の馴染みの店に電話、丁寧に今日は休みと言われ、とりあえず大阪の古き良き雰囲気を残している法善寺横丁を見学。
 考えた末、通天閣のソース2度づけ禁止で有名な「ダルマ」の心斎橋店に行きました。綺麗さ問題無し、人声で喧噪に包まれ、大阪一杯の全て希望通り、スイスには絶対無い所でした。2度ずけをしたので、それがダメと言い、タッチパネルの使い方が分からず、やたら押したので二ネットが注文し過ぎと違うかと聞いたのは愛嬌でした。

 六本木でメキシコ副領事と飲みに行った時、店員が「いらっしゃい」と大声を出して言うのを日本で初めて聞いて大変驚いたと言っていた事を思い出しました。考えれば居酒屋等で大声を張り上げる事を普通にやっているのも日本だけ。
 イタリアで家庭料理を食べてパスタをツル、みんなに見られました。皆さん食べる時はお静かに!
 
 でも、ここはマナーも大阪、今日はスイス人を連れて短時間で色々案内出来て、みんな大満足でした。私が思うだけかもね(^^♪
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