旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

580 サッカー(次回8月4日土曜日に更新予定です)

2018-07-21 08:07:01 | ブログ
 ワールドカップを目指してラクロスに精出していた名古屋の女性がいました。30年以上前の事ですが、ラクロスが一般でなく未だプレイしている人が少ないと言っていました。今でもそう多くなったとは思いませんが、私がプレイするには遅すぎます。
 ワールドカップサッカー熱が冷めて、イニエスタとは普通のおじさんと言う程度のサッカーファンです。ほぼ50年程前頃、車上からオランダのサッカー場を見た時、こんなの日本にできるはずがない一面グリーン、その美しさに驚きました。それは日本では気候の違いで、その様な美しいピッチはできないとその後も思っていました。それが、91年、川淵さんが高らかにJリーグ開幕を告げて日本にも同じ色グリーン、再度驚きました。これも歴史を見たとの感じです。それからもう直ぐ30年、時は待ってくれない、早いものです。

 今もだと思いますが、確か、英国では日本のJ1に当たるのがプレミアム確かが多いですがが20チームあり、その下に100以上チームが、そのどのゲームも人で一杯でした。驚く事にどれも観客数は超満員の10万人超えていました。当時、ジャイアンツだけが5万人を超える観客数で、驚く以外ありませんでした。
 これも半世紀前の事で不確か事が多すぎますが、名前は合っていると思うのですが、ホワイトシテイでサッカーを観戦した時でした。英国人の友人が当時、ミューヘンオリンピックで、7万人しか入れないのは、椅子があるからだと言っていました。そこでは観客席は無くて、全員立って見て10万人は入れると誇っていました。前に倒れ保護の為の鉄棒があるだけの球場を誇りにしてました。

 ドーハの悲劇の後、ワールドカップカップに出るのが、普通になりました。マスコミ等で時代に乗り、国民のスポーツとして野球に変わる勢いで定着してきています。日本人のブームと言うか波に乗るのが尋常で無く早いと思います。ただ、まだまだ、マスメディアは野球がメインでワールドカップカップが近づくとサッカーばかりになってしまいます。

 ロンドンのアーセナルFCの地元では各家にフラッグ等の飾り、街中で応援しているとの雰囲気で盛あっがっていました。どのチームもこんなだと思いました。映画でサッカーの応援に夢中になって人子一人いない街、その間をぬって強盗をやる映画を見たのですが、そんな話が実際ありそうな程のサッカー熱。日本はまだまだ頑張らなくては...

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579 司馬さんから (毎週土曜日に更改しています)

2018-07-14 04:27:56 | ブログ
 「アイリッシュは風刺や皮肉、あるいはユーモアを一発かます時、笑っていない」と司馬さんが書いています。これは京都人の特性でしょう?そんな事は無いと怒られるかも?そうです、それは私自身の事でした。今でも思い出しますが、言った本人は忘れていると思いますが、一度、同業の方にそう言われた事があります。そう言われてみて自分が笑って無い事に初めて気付きました。

 「動物の世界では、子供が自立できると母親に巣よって巣から追い出される。鷹はヒナの間は食わせてもらうが、飛翔訓練をつんで、エサが取れるようになると巣を出て、他の谷へ行き自らエサ狙う。アメリカ人の独立精神はいかにも鷹に似ている。」これも、司馬さんが、本に書いた事です。

 我々は、この様にいかないようで、大人になっても自立できない人が多すぎます。この話と違って、悪いように悪いようになっています。これ以前の問題が、数々ありましたし、あります。世間に子供虐待等、涙が思わず出て来るから最後までニュースを聞けない見られない、あどけない自分の子を殺すと言う人間達が世の中に存在すると言う事。

 ブログ、丁度一年前知らせがきました。523話で ニュースで、その幸せも分からないままに、小さな子を殺すと言うのは心を痛め、何とも言いようがです。1年前に書いた事と変わらない、と言うより世の中、増々酷くなっています。

 今でも忘れられない、中学1年生の上村遼大君は、カッターナイフで切りつけられて、「切った後も再び川で泳がせ、暴行を繰り返した」とその後、供述しているという。川で泳がされて死んだ時は痛ましいと思いました。それと同じような酷い事件が起き、見るのが辛くなるニュースが多くなってきています。

 最近は無差別殺人がはびこって、全く関係の無い人間の事も街に出れば心配しなければならないです。多くの場合、精神に異常があると判断されています。人殺しができるのは、精神異常な状態です。全くの殺され損です。避妊など考えもしない明治以前の昔は、子供の堕胎は多かったに違いないです。その様な資料と言うか文献が無いと思います。生まれてそのまま捨てられた幼児、今でもある乳幼児の死体も凄く多かったのに違いないです。
 同じ様な事が酷い事が昔もあったかも知れないですが、直ぐにニュース等で見るから現在は多いと思うのです。人の心は益々荒んでいます。悲しい事です。救われるのは、ボランティア活動が若い人に定着した事です。

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578 思い出思い出し (毎週土曜日に更改しています)

2018-07-07 05:50:32 | ブログ
 友人のKathtyがアジア各地を巡り再び日本に来た時、50年前に海外に行く計画を立てていた事を改めて思い出しました。スイスから3ヶ月かけて日本に来ると言う凄いコースを取りました。しかし、彼女はインドに四度も行っているのに何故かホームシックになり、すごろくの様にスイスに一度帰ったそうです。そして又日本を目指し旅を続けると言う、マダマダ若い冒険心を持っていて素晴らしい事です。
 私が最初に海外に行くことを計画した時、もう50年程前の事になりました。1ドルが360円、計画した時に海外持ち出し金が、確か、500ドルと数万円、しかし実際持ち出した時点では、1,200ドルとなったと記憶しています。戦後はずーっと同じでした。
 1,200ドルを超えると持ち出してはいけないと、出国に際して、歯磨き粉の下の部分を開いて日本円を隠し持っていたのでした。しかし当時ソ連に入国する際は、国が変わると、そのような事は必要は無かったのでした。丸っ切り何も知らないですから、その時は緊張していたと思います。没収されていたら、その後は、人生どうなった事や、今ならその顔色で完全に見つかって没収されていたと思います。着いたナホトカは初めての外国、暗い雰囲気で町は舗装していない道路、板塀の家等、全体に貧しい雰囲気でした。

 そもそも海外の旅を計画した時、安く行けるという事で、先ず荷物を運ぶ日本郵船でオーストラリアを考えましたが、運行を止め諦めました。そして横浜から船に乗ってソ連のナホトカに行く欧州へ行くコースを発見、それを選びました。当時は殆どの旅人が欧州を目指してそのルートを取った思います。

 これも不確かとなりましたが、休学届を出しに行って、その理由(どんな理由を行ったかは不確か)では受けられない、辞めて行きなさい。復学させてあげるからと言われた、そこで無理やり福祉関係に事を勉強に行くと言ったと思いますと言ったと思います。それが旅の性質、目的と私の運命を変えました。
 昔は昔ですが、今回キャティは支払いの度に自分がと、その時、今度スイスに行った時に払ってくれたらいいよと言えば良かったと後から思いました。それは若い頃、バミューダでワインを年配の夫婦におごってもらった時、「自分達の年になったら同じようにすればいい」と言われた事を後から思い出したのでした。言ったらカッコいいのに、遅すぎます。何時も後から、やっぱり日本人、いえ私でした。今度、スイスに行った時、払って貰うつもりです。
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