大阪駅から神戸方面にJRで1駅で塚本、私は阪急電車の十三から歩きました。昔友達の大阪で言う文化住宅、共同トイレの安アパートに良く泊めてもらったのですが、その面影も無くなっていました。変わらないのは、高層ビルの無い庶民の町と言う事でした。
川の面影も無い中津川の左岸と言われる所を経て右岸を散策、丁度土手部分と言われる家の間の狭い道をガイドさんと歩きました。説明によると、坂本龍馬も大阪から神戸の抜け道として利用していたとの事でした。
川が無くなったのは、明治18年(1885年)の大洪水があっての事でした。被災人口は約27万人、それで新淀川が建設が計画されて明治42年(1909年)に完成されたそうです。そのさい、今ならできない3,000人以上の人が立ち退きさせられたそうです。
家並みが続き、現在は新淀川と神崎川に挟まれています。鼻川神社(昔地名は漢字を簡単にすべきだと、この辺りを花川との地名になったそうです)があり、神功皇后が地形が鼻に似ているので鼻川神社と命名したそうです。昔の地図を渡されると、その昔は川が入り込んでいて、地形が変わったのが良く分りました。
現在この辺迄来ると、川の名を新淀川、淀川が上流の天神橋で大川と新淀川に2手に分かれ、新御堂に掛る橋を新淀川大橋、そして十三大橋と続いています。ここを聞き忘れたのですが、新淀川に掛る橋なのに何故か新が付かず淀川大橋北詰になりました。
今回のコースの一番南端になり北にあがり野里本町商店街、淀川大橋北詰とこの間が昔の中津川との事でかなり広く2‐300メーターはありました。そこは電車の駅があった頃は栄えたらしいですが、寂しい商店街を歩き古い民家の堤下(ていか)さん宅で、ご主人の手品を見せてもらいました。
野里住吉神社(1382年足利義満創建、こんな所に神社を作ったのは義満さん本人知っていますかどうか?)は、毎年7月31日と8月1日に夏祭が執り行われ、3つのだんじりが行き交いすると言う事でした。先ほどの堤下さんのお父さんが神社の彼方此方に寄贈の印があり改めて手品をした人を見直しました。
かって野里村は「泣き村」と呼ばれるほど風水害、疫病に見舞われ娘を人身御供にして、そこに武者修行中の岩見重太郎が現れて解決に乗り出したと言う話は、司馬遼太郎が小説化しているとの事です。そこで毎年行なわれる一夜官女祭と言う祭で、現在もその時を思い出させるそうです。
そこでガイドさんが説明してる鳥居の下で、‘あそ歩”のジャンパーを着た郷土史研究家の先生が、マナー悪く煙草を吸っていたので注意しようと思ったのですが踏みとどまったのでした。そして次の旧家池永家に入る際は、その先生が入口の錠前を厚かましく勝手に開けて中に入るではありませんか。この地区に不釣り合いな総面積300坪、家と庭がある所をその先生が説明して、家の土間でここの持ち主と聞き驚きました。人は見かけに依らないものだと思いました。
一言多いのが今までの人生の誤りでした。あそ歩は3度目ですが、自分一人で歩いても分らない、面影も無い所を良く説明してくれました。
川の面影も無い中津川の左岸と言われる所を経て右岸を散策、丁度土手部分と言われる家の間の狭い道をガイドさんと歩きました。説明によると、坂本龍馬も大阪から神戸の抜け道として利用していたとの事でした。
川が無くなったのは、明治18年(1885年)の大洪水があっての事でした。被災人口は約27万人、それで新淀川が建設が計画されて明治42年(1909年)に完成されたそうです。そのさい、今ならできない3,000人以上の人が立ち退きさせられたそうです。
家並みが続き、現在は新淀川と神崎川に挟まれています。鼻川神社(昔地名は漢字を簡単にすべきだと、この辺りを花川との地名になったそうです)があり、神功皇后が地形が鼻に似ているので鼻川神社と命名したそうです。昔の地図を渡されると、その昔は川が入り込んでいて、地形が変わったのが良く分りました。
現在この辺迄来ると、川の名を新淀川、淀川が上流の天神橋で大川と新淀川に2手に分かれ、新御堂に掛る橋を新淀川大橋、そして十三大橋と続いています。ここを聞き忘れたのですが、新淀川に掛る橋なのに何故か新が付かず淀川大橋北詰になりました。
今回のコースの一番南端になり北にあがり野里本町商店街、淀川大橋北詰とこの間が昔の中津川との事でかなり広く2‐300メーターはありました。そこは電車の駅があった頃は栄えたらしいですが、寂しい商店街を歩き古い民家の堤下(ていか)さん宅で、ご主人の手品を見せてもらいました。
野里住吉神社(1382年足利義満創建、こんな所に神社を作ったのは義満さん本人知っていますかどうか?)は、毎年7月31日と8月1日に夏祭が執り行われ、3つのだんじりが行き交いすると言う事でした。先ほどの堤下さんのお父さんが神社の彼方此方に寄贈の印があり改めて手品をした人を見直しました。
かって野里村は「泣き村」と呼ばれるほど風水害、疫病に見舞われ娘を人身御供にして、そこに武者修行中の岩見重太郎が現れて解決に乗り出したと言う話は、司馬遼太郎が小説化しているとの事です。そこで毎年行なわれる一夜官女祭と言う祭で、現在もその時を思い出させるそうです。
そこでガイドさんが説明してる鳥居の下で、‘あそ歩”のジャンパーを着た郷土史研究家の先生が、マナー悪く煙草を吸っていたので注意しようと思ったのですが踏みとどまったのでした。そして次の旧家池永家に入る際は、その先生が入口の錠前を厚かましく勝手に開けて中に入るではありませんか。この地区に不釣り合いな総面積300坪、家と庭がある所をその先生が説明して、家の土間でここの持ち主と聞き驚きました。人は見かけに依らないものだと思いました。
一言多いのが今までの人生の誤りでした。あそ歩は3度目ですが、自分一人で歩いても分らない、面影も無い所を良く説明してくれました。