旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

277 塚本-3度目の大阪あそ歩参加

2012-11-24 06:41:56 | 散策
 大阪駅から神戸方面にJRで1駅で塚本、私は阪急電車の十三から歩きました。昔友達の大阪で言う文化住宅、共同トイレの安アパートに良く泊めてもらったのですが、その面影も無くなっていました。変わらないのは、高層ビルの無い庶民の町と言う事でした。

 川の面影も無い中津川の左岸と言われる所を経て右岸を散策、丁度土手部分と言われる家の間の狭い道をガイドさんと歩きました。説明によると、坂本龍馬も大阪から神戸の抜け道として利用していたとの事でした。

 川が無くなったのは、明治18年(1885年)の大洪水があっての事でした。被災人口は約27万人、それで新淀川が建設が計画されて明治42年(1909年)に完成されたそうです。そのさい、今ならできない3,000人以上の人が立ち退きさせられたそうです。

 家並みが続き、現在は新淀川と神崎川に挟まれています。鼻川神社(昔地名は漢字を簡単にすべきだと、この辺りを花川との地名になったそうです)があり、神功皇后が地形が鼻に似ているので鼻川神社と命名したそうです。昔の地図を渡されると、その昔は川が入り込んでいて、地形が変わったのが良く分りました。
  
 現在この辺迄来ると、川の名を新淀川、淀川が上流の天神橋で大川と新淀川に2手に分かれ、新御堂に掛る橋を新淀川大橋、そして十三大橋と続いています。ここを聞き忘れたのですが、新淀川に掛る橋なのに何故か新が付かず淀川大橋北詰になりました。
 
 今回のコースの一番南端になり北にあがり野里本町商店街、淀川大橋北詰とこの間が昔の中津川との事でかなり広く2‐300メーターはありました。そこは電車の駅があった頃は栄えたらしいですが、寂しい商店街を歩き古い民家の堤下(ていか)さん宅で、ご主人の手品を見せてもらいました。

 野里住吉神社(1382年足利義満創建、こんな所に神社を作ったのは義満さん本人知っていますかどうか?)は、毎年7月31日と8月1日に夏祭が執り行われ、3つのだんじりが行き交いすると言う事でした。先ほどの堤下さんのお父さんが神社の彼方此方に寄贈の印があり改めて手品をした人を見直しました。
 かって野里村は「泣き村」と呼ばれるほど風水害、疫病に見舞われ娘を人身御供にして、そこに武者修行中の岩見重太郎が現れて解決に乗り出したと言う話は、司馬遼太郎が小説化しているとの事です。そこで毎年行なわれる一夜官女祭と言う祭で、現在もその時を思い出させるそうです。

 そこでガイドさんが説明してる鳥居の下で、‘あそ歩”のジャンパーを着た郷土史研究家の先生が、マナー悪く煙草を吸っていたので注意しようと思ったのですが踏みとどまったのでした。そして次の旧家池永家に入る際は、その先生が入口の錠前を厚かましく勝手に開けて中に入るではありませんか。この地区に不釣り合いな総面積300坪、家と庭がある所をその先生が説明して、家の土間でここの持ち主と聞き驚きました。人は見かけに依らないものだと思いました。

 一言多いのが今までの人生の誤りでした。あそ歩は3度目ですが、自分一人で歩いても分らない、面影も無い所を良く説明してくれました。

 
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263 淀川の風に吹かれて 

2012-08-18 05:16:09 | 散策
 大阪あそ歩、出発地点は、太子橋今市と言う梅田から地下鉄谷町線で270円の守口市との境目でした。先にお昼を食べようと、駅からほぼ一駅歩いた京阪「滝井駅」駅前の‘踊るうどん’と言うお店に決めました。

 そこは何も無い実に寂しい限りの駅の前にありました。まだ開いて間も無いはずでしたが、店の前は沢山の人が待ってました。覗くと店の人が出て、非常に愛想良く一人ですからと、待っている人に聞いて、それだけで感動、先に入れてくれました。店はカウンター8席とテーブル10席の狭い店でした。

 この店で一番高い?うどんを注文するのを決めていましたので、「肉舞茸天おん玉ぶっかけうどん」930円を注文しました。「ぶっかけ」用には柔らかめでモッチリとした歯触りの麺を、「かけ」用には熱いダシで麺が柔らかくなるのを計算して固めの麺を打つそうです。その都度揚げる舞茸天もカリカリして今まで食べた中でも一番美味しかったでした。店主もスタッフも気持ち良く働いていて、行列ができて流行るのが分りました。

 集合場所行く為、わき道に行くと直ぐに関西医科大学病院があって、まだ行くと大きな数本の木が そこは神社かと、目指して行きました。そこには二階建ての家よりも高い木が狭い庭にあって、庶民の家に似合わない、大きな木があるそんな家が沢山ありました。

 そんな中で、間口が3m足らずで薄汚れた白いテントで隠された何の店か分らない看板も風雨にさらされているお店があり‘創業嘉永元年’160年程前になりますが、中を覗くと煎餅を売っていました。良くまあこんな店が大阪の端で商売を長く続けているなと思います。

 大通りにでると、工事の途中かと思われるようなバラバラに木が打ちつけてある建物がありましたが、住宅販売会社のものでした。色々なものに遭遇しますが、ここから大阪市の看板がありました。
 
 集合場所に着き出発すると、守口市の敷地に大阪市立学校が建っていると言う、まさに市の境目となっていました。太子中公園にある銀杏60本は御堂筋に行けなかったと言われ、埼玉県から取り寄せた苗木を大阪の地に馴染ませる為にここで育てた残りがあるとの話でした。そこから少しの所に淀川の河川敷に橋寺廃寺の跡があり、堤防沿いに豊里大橋のたもとに平太の渡し跡。赤川廃寺の跡等、跡ばかりでそれぞれに石碑が建っているだけのものでした。
 土手を降りると、エントランスが中之島公会堂を模したメモリアルゲートを持つで大阪工業大学でした。その建物は圧倒されるほど近代的な素晴らしいものでした。

 川沿いには、沢山のグランドがあって、日本にこんなに大勢の人々がラクビーをやっているのかと思うほどプレイしていました。暫く歩くと、川のワンド(土砂が堆積して魚、鳥等が住める様にした)が、明治時代オランダからデ・レーケさんが来て淀川修築されたと言う事でした。城北公園では、昨日開園した菖蒲を満開迄もう少しの花を観賞しました。

 最後に赤川鉄橋は、レトロと言うか、今は単線に貨物列車が日に不定期に1-2度通るだけと説明がありました。その片側を沢山の人が生活道路として利用している中を、風に吹かれて広い淀川を6,674Mを渡って帰りました。

 
 
 
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261 緑橋 

2012-08-04 07:23:53 | 散策
  その名も‘大阪あそ歩’1,000円に参加して散策してきました。緑橋と聞いた事も無い駅で集合、地図を見ると環状線の森ノ宮から地下鉄で1駅、もうちょっとで東大阪市でした。

 森ノ宮から緑橋まで歩きましたが、途中に高層な公団住宅があり、平野川が流れる事無く汚く流れ、中央大通り上に阪神高速と、そして緑橋と言っても川も橋も無く、一駅がとても遠く感じました。

 四ツ角に銀行、パチンコ屋、マンションそしてテークアウトのサンドウィチ屋さんと、お昼を食べる為に、四方を歩いて、兎に角安い390円のから揚げ定食がある‘よしまん’に入り、高級チキンカツ特製トマトソース490円を安く美味しく頂きました。安い!

 昼食後、集合場所に行くと、既に10名程来て最終的に16人となり、いよいよ千間川(せんげんがわ)ノスタルジック散歩に出発です。ガイドはこの辺りに住んだ事のある人で、サブガイドが奥さんで、大阪らしくあめちゃんを2個配ってくれました。

 駅を出て、にしん巻きで有名と言われている山本、ここから左に折れて、早速、‘燈(あかり)’2008年9月に町屋を再生した昭和の複合施設でした。オープン部分に駐車スペースもあって、右側に箕面の地ビールも出すカウンターバーがあって、左前に帽子専門店、週末には色々イベントがあるそうです。帽子専門店と言うだけあって、オリジナルなあつらえのも作ると言う事で、2階が 貸しスタジオになっていました。
 緑橋のいわれをガイドさんに聞くと分らない、歩いている所が千間川の埋め立てた後、その埋め立て用の土はどこから持って来たのかと聞くと分らない、多分、地下鉄工事の土かも知れないと言ってました。道路の左右の家々が低いのは、今歩いている所が昔土手であったと言うのを聞いてなるほどと思いました。

 白山神社は、この地域の氏神さんで、幹回り5mもある立派な のしを巻いたイチョウの木は大阪市内で一番と言う話でした。大阪冬の陣では本田忠朝が物見をしたと説明がありました。鳥居の柱の縦は石で、上の横の棒に紐が巻いてありましたが、何か謂われがあるのかなと思っていました。丁度神社の方が出て来たのでその謂れを聞くと、通常良くある、竹とかで作っていたとの話でしたが、私は初めて見たものでした。

 その隣は正園寺で、この辺り一帯が明治18年の大洪水で もともと寺子屋であったのが消滅したそうです。京に向かう杉山街道を行くと、丸いモダンな建物が見えてきて、大阪市で3番目となる下水処理場だそうですが、下水からの水で鯉とかも住める様になって桜の名所の並木があり綺麗になってました。

 この辺りは、下町で銭湯が多くありましたが、扶桑薬品の様に薬関係の会社も多いと言う事でした。細い道の奥に、ここだけ別格CarpeDiem(ラテン語で‘今を生きよ’)と言う300坪の庭園を持つゲストハウスがありました。主に外人が泊ると言う事ですが、第一日曜日にお茶の会を開催すると言う話を聞き、是非とも又来られればと思ったのでした。
 
 こうやって見ると、自分自身では見つけられない事が発見できて参加して良かったと思います。

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260 シアトル

2012-07-28 05:22:42 | 散策
 イチローが去ったシアトルには ボーイングとかスターバックスの本社等があります。レンタカーを利用して今でも空港からダウンタウン迄の道筋を覚えています。モノレールがありスペースニードルはタワーで多くの映画にも出て来て、日本にまだ100円ショップが無かった当時、シアトルの町で今なら100円以下になる1ダラーショップでの買い物を楽しみました。

1988年頃のシアトルから始まる日本人少林寺拳法家が中心になる‘炎 流れる彼方’を読みました。有名なパイク プレイス マーケットは生鮮野菜や魚を飛ばしながら売る店があったりして、その時期に行っているのに、本の中で、マーケットの前が昔からの淫売街とは知らされなかったのでした。

 ‘炎 流れる彼方’題名で選ぶなら先ず本を読まなかったと思います。船戸与一が著者だから読んだので、しかし実際題名からハードボイルドな内容であるとは気が付かないでした。前半がボクサーの話で、後半でブラックパンサーも出て、ハードボイルドで最後に撃ちあい等、暇を過ごすには面白く書けています。
 
映画でもこの本でも、年中雨が多いと言っていますが何度も行って自慢になりますが、晴れ男の私は傘を持っていった事がありません。シアトルは数々の映画の舞台となっていますが、トムハンクスの出ている、確かレメイク版‘めぐり会い’?と思います。一時期、必死になって東京シアトルの便を売りまくったものでした。 

少し市心から離れた所にあるツインピークスはその当時評判のドラマであって、途中の景色を楽しみながら行きました。道路の一番左の車線は、確か2人乗り以上と言う事でラッシュ時も空いていた事を思い出しました。ここも営業の為に良かれと、旅行社の人達を連れて行き、皆とポーズを取った写真が現地の新聞に載った思い出があります。

 一度はワシントン州、オレゴン州と車で南へ、ラングロワまで行きました。改めて地図で見ると、凄く遠いのに驚きますが、若かったのでしょう、車で行きました。何処か分らないと思いますので、もう少しでカリフォルニア州なると言う田舎、どちらかと言うと道路沿いの村でした。村と言っても集落では無くて、何軒かがあるだけと言う所、そこにアメリカ人のご夫婦が住んでおられます。日本におられる時に大変世話になりました。現在92歳になられますが、元気に過ごしておられます。

 田舎ですから郵便物を自分で郵便局に取りに行くと言うのは、読んだ本でもありました。今になって疑問なのが家に日本の深いお風呂があった事でした。当時は日本好きなのだと思っただけでしたが、どうやって米国に持ち込んだか聞くのを忘れました。色々後になって疑問点が見つかりますが、日本には3-40年住んでおられたから、日本の良さを忘れられないのでしょう。川には大きな鮭が沢山泳いでいて流石ワシントン州だと思いました。

 地図はレンターカーの所で貰ったもので、帰りは海岸線沿いに車を走らして、殆ど忘れてしまいましたが、とても綺麗な海岸の景色が頭の中に残っています。
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255 十三 Ⅱ

2012-06-23 06:00:00 | 散策
 そのまま行くと、角に元禄時代に京都伏見で創業して大正末期に十三に店を構えた㈱西川、ここは大阪で唯一様々な用途に使われている柿渋店だそうです。布団の西川は知っていますが、違うのかどうか確かめるもなく、そこを曲がるとやっとにぎやかな阪急十三駅になりました。

 地下道をくぐり、十三駅前西商店街に入りますが、ここは駅の東側と違って凄く活気ある町で何でこんなに違うのかと不思議に思われました。通称‘波平通り’華やかで、やっと十三らしく、その昔夜に良く飲みに来ました。飲み屋街から国道を渡ると、そこから初めて行くフレンドリー商店街に入りました。
 少し行くと人が一杯で何事かと思いましたが、野次馬根性でのぞくと、演歌歌手のキャンペーンで表の写真とちょっと違う熟女歌手がいて、小さなお店から人が溢れていました。どんどん行くとJモール、そして もといまロードと続く商店街のイメージは物忘れがひどく、どこか思い出しませんが、東京のある商店街に良く似ていました。長く美しい所は十三とは思えない程広くにぎやかな通りでした。

 終り近くにスーパーのサンデーがあったので十三公園で飲もうとビールとおつまみを買いました。その公園が地図を見て分らないので、丁度一人で遊んでいる子に聞きました。なかなか良い子で道を丁寧に教えてくれましたが、こんな子供が最近の治安の問題等で言うと危なくなるので、自分が聞いたのに申し訳無いですが、世の中住みにくくなるのは当然です。
 
 ちょっと一休み、その公園は丁度八重桜が満開でベンチに座って桜見物となりました。次に行く所を考えていたのですが、公園はかなりの人で、子供の間を30代と思われる人が盛んにダッシュを繰り返していました。その向こうが手塚治虫出身全国的に有名な大阪の北野高校がありました。

 この辺りは初めてきたので地図の見間違いもあって迷ったですが、富坂賢太郎歌碑(格調高い歌をつくり、数々の災難やだまされても人を信じたいと絶望せずに、不運にも最後は交通事故で亡くなったと言う人だったそうす。)を入口が狭くて分かり難い、Jモールの終わりの方にある長安寺の境内に見つけました。そこを出まして、珍しい桶等が置いてある寂れた店の前を通り過ぎて、自分の位置を確認すると、この店が樽加商店と言う案内書に載って、もう一ど戻って見ました。本には時代劇の1シーンのような佇まいと紹介されていました。向かい側が十三バイパスの高架になりました、その下に洒落たバーや食べ物屋が何軒かありました。

 ここから、淀川図書館に行こうと思って戻って行くとプラザオーサカ(今は無きホテルプラザとは関係無し)があり、昔、オープニングの時に招待されて行った事を思い出しました。粗品としてOsaka Plaza Hotelと一杯書いてある浴衣を頂いた事を思い出しました。沢山の研修生と思われる男女が出て来ましたが、このホテルだけがまともで、この辺りは十三のもう一つの有名な面、派手で有名な昔は温泉マークと言っていたホテル街となっています。こんな所に多分研修とは思いましたが驚きました。

 ホテル街を抜け川の畔にステラマリアと言うフレンチレストラン、ここは昔10数年前に安いので良く来ました。十三でフレンチ料理とはなかなかいかしていましたが、世の中変わるもので、メニューを見るとその当時安かったのに、今安い店が沢山できたので普通の値段の店になりました。
 そこを抜けて行くと、目的の図書館がありました。多分この地域ではここが唯一優良施設の図書館と思われるのですが、一階のみで大変混んでいました。狭く落ち着いて座る場所もないので、沢山歩き疲れたので仕方無く帰る事にしました。
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254 十三  

2012-06-16 04:44:47 | 散策
 十三(じゅうそう)は ここを分岐点に阪急電車が神戸、京都、宝塚、箕面、北千里等に分かれて行く駅です。駅舎はごさごさして古く、もう立て替えても良いと思いますが、この周辺の地域にぴったりとあっていると思います。余り降りる事は無いですが、大阪の1つの典型的な街と言えます。
 昔、藤田まことが‘十三のねえちゃん’を歌ったように、駅を西側に出ると本当に直ぐに右側に細い路地があります。そこに飲食店が沢山ひしめきあっています。そこを通り過ぎて行くとなんと日本で一番の製薬会社があります。ここは御堂筋にも立派なビルがありますが、その昔、その方達と同行して夜の十三にある安いお店を飲み歩いたのでした。CMで良く見る日本で一番の会社に勤めて、初めて十三に来た時は驚いたのに違いありません。そんな所ですが、私の知りあい達も関東から来て、大阪が気に入り、住みついた方がおられます。
 
 そこを、まち歩きマップ‘大阪あそ歩’を持って散策となりました。久々に十三に降りて最初から間違って東口に出ましたから、コースと反対周りに神津(かみつ)神社にでました。十三の氏神さんだそうで弓矢の神様、八幡大菩薩を祀ってありましたが、今宮神社から分霊をいただいて‘十三(とみ)戎’合祀したそうです。他にも山之稲荷神社とか沢山の神社内神社sがありました。ここの手水場が変わっていて、3つの蛇口が手元上から下がっていて目の前に女の子の絵が、口のすすぎ方まで書いてありました。今までの神社では、見た事が無い、水を遊びに使ってはいけませんと注意書きがあったのも十三のここならではの事でした。

 本に依ると、島左近(石田三成の軍師)と島道悦(孫、中津川治水事業に命を賭けた人)のお墓があると言う場所に行きましたが、見つかりませんでした。丁度昼時分でその近所の銀シャリの店で昼ご飯を食べて聞けば分かると思ったのですが、ここで30年店をやっているが知らないと言われて、国道向かいにあるお米やさんを紹介されました。渡るのも面倒ともう一度裏道を歩くと、20坪程の今工事中のブロックで囲んでいる最中のお墓群を発見しました。後から見ると、通りからブロック塀が邪魔をしていて島家の高い墓の裏側が頭だけ見えるのでした。その向かいに歴史ある古い文字が刻んである島道悦(中津川治水事業に命を掛けた人)のお墓を発見しました。

 そして、裏通りには二畳ばかりの靴屋さん等があって自分のいる場所が分からなくなって、地図を見ていると正装した人が出てきました。そこは十三ミュ-ジックの入り口でした。昼間から客と間違われた様ですので、その場を退散しました。

 余談ですが思い出したので昔、十三ミュ-ジックとは全然違いますが、ストリップで京都千中ミュージックと言うのがありました。その前で中学時代の友人の家が貸し自転車置き場をやっていましたが、その近くの映画館で中学時代に友人と一緒に成人映画の‘世界残酷物語’を見ました。社会一般常識が変わるので驚きますが、今ではごく普通の映画でTVにも出ましたが、当時はバンジージャンプ等、怖い映画でした。

 大衆演劇の役者等のかつらと作ると言う山井かつら店が見つからず、仕方無く寂れた木川本町商店街に入りビーフ(小さく)ドカレー等やたら能書きが多い店ですが店名が分らないと言う珍しい喫茶店がありました。

 そこを過ぎるとツバメ通り(十三東本町商店街)ここはアーケードも無く解放的ですが相変わらず人通りが少ないです。本に乗っている北岡神祭具店がありましたが、殆ど見るに耐えられ無いと思うほど奥行きはありますが間口の狭い所でした。

 駅東側だけでもこれだけ書けましたので、又、西側を案内する事にします。 
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253 花の名所めぐり

2012-06-09 05:36:17 | 散策
 牡丹、芝桜と藤を見に朝7時40分いつもの場所に集まって、日帰りで2食付7,990円のツアーに参加しました。。昼食が混むと行く順序を変えられて、最初に中国三田から有名なアウトレットに行く道を曲がらず真っすぐに行って市内の素晴らしい中央公園を左に見て花のじゅうたんで有名な永沢寺に行きました。

 このツアーの歌い文句に全国でも数少ない芝桜に特定した庭園でと言う、一面に広がる芝桜を堪能しました。確かに素晴らしい芝桜が咲いていました。どれも同じに見えるのに、種類がかなりあるのでサンプルが陳列した置いてあるので、分りそうなもですが、殆ど同じに見えました。人が歩く通路の足元が見えないので、沢山の人が綺麗な花の間を通っているように見えるのでした。

 入口は隣にあるのですが、二千株の牡丹の公園がありました。そこは年中花で覆われるのか、広大な未だ咲く前の菖蒲園の向こう側に牡丹の花が咲いているのが見えました。近くに行くと、今真っ盛りの色々な種類の牡丹の花が陳列会よろしく勢揃いしていました。永沢寺は海抜550Mあると言う事で今も八重桜が咲いていて、それだけでも見ごたえある、まだ花を咲かす前の菖蒲の間に、水車小屋が様になっていました。

 次はバスで丹波篠山迄行くのですが、道路が大型バスが通るのを想定して無かったので、途中対向車が来るとその都度停まり横をすり抜ける程狭い道でした。私はバスの左側窓側に座っていて状況は見えませんでしたが、時々対向車はかなり下手な運転手がいました。そんな運転で道からはみ出しそうになり、乗客の悲鳴にも似た声が何度かしました。、

 そうこうして無事に篠山城跡の駐車場に着きまして、自由に町見学となりました。城跡は時間が少なく見学はしなかったですが、立派な堀も中にある建物も見る価値がありそうでした。町は私が想像していたのと違いまして(何処に行くか、実は何も考えていませんでした)、それなりの雰囲気を持っていました。役所も力を入れているのか、お城跡の直ぐ近くに市役所がありましたが、周りの景色と上手くつり合って、白壁が良く似合っていました。

 4つの食べ歩きと言う事で、文句に間違いありませんでしたが、サンプル食べ歩きと言った方がピッタリと良いのかも知れません。余り贅沢は旅行代金から言ってはいけませんが、くり2個と言うのでも1つでありました。それでも皆が食べるので相当数でした。
 国有形文化財登録にもなったいる、ほろ酔い城下蔵と言う鳳鳴酒造は寛政9年創業(築後200余年)と老舗で、お酒の試飲しました。現在はお酒は別な所で仕込んでいて、見学用に酒蔵等も見られました。酒樽の間にコンサートができるように、ピアノが置いてあったりして見学には凄く良いなと思いました。以前見学した、京都伏見の今造っている酒造所よりも昔ながらの雰囲気を珍しく見学しました。
 
 お昼は、牛陶板焼き膳と竹の子ご飯食べ放題でしたが、家に帰ったら朝掘りの竹の子が待っているのとそう食べられないので、次の訪問地迄トイレ無しのバスの旅に、ビールはちょっと心配しながら美味しく飲みました。

 舞鶴若狭自動車道を中国自動車道へ大阪に向かわずに最後の大歳神社の藤の花は、バスは遠くに停められて、そこまで幹線道路から少し歩かなくてはならなかったのでした。年寄りには少し厳しい距離と時間でしたが、近くに行くと藤のいい香りがしてきました。初めて見る比較的に狭い境内には、藤の花が雨の様に隙間なく垂れて咲いていました。

 黒豆弁当を食べながら帰りが大変で、連休半ばですが高速道路は車で一杯でした。しかし慣れた運転手で高速道路を出て、一般道を走り又途中で高速道路に戻ると言う業で比較的に予定より早く帰る事ができました。
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252 昭和町

2012-06-02 05:00:12 | 散策
 昭和の日に昭和町まで行きました。毎年特別イベントがあり、昭和町はなんと全国に99もあるそうです。梅田から地下鉄御堂筋線一本で270円、勿論初めて降りる駅です。

 地上に上がるとイベント‘どっぷり、昭和町’関係の人が、パンフレットの地図を2枚配っていて、この周辺のレストランの紹介と会場の位置を知らせてくれました。昼を食べるつもりで、以前新聞にかいてあったので有名な1952年創業のハンバーグのBOSTONがその後ろにありました。開店まで時間があるので、早速地図を見て散策開始しました。

 ボランティアの人がこんなにも多くの人が集めて、このイヴェントを成功させたのは大変だと思いました。先ず、1本道を入ると寺西家とその前に寺西長屋がありました。
 この地域は戦災を免れたそうで、狭い通りに人だかりが凄くて、駅から直ぐ近くに古い長屋があるとは驚きでした。この長屋はガス風呂も備えた最先端だったそうです。左側にある寺西家は一般開放されていまして、靴を脱いで上がると、11時から伝承料理研究家や様々な公演が予定されていました。庭の隅には、比較的に小さな蔵があり、洒落た料理も味わえるバーになっていました。向かいの長屋は今風にアレンジされたレストランに様変わりしていました。塀にはまちかど写真展よろしく昭和の昔の姿を紹介していました。

 そろそろボストンのオープンが近いのでお店に行くと、既に一組並んでいたのでその後ろに並ぶと直ぐに10名位の列ができました。列で携帯販売店の店の前がふさがるとクレイムがイベント関係の人にありましたが、店はまだ開かれずシャッターが半分下りたままでした。暫くして、お店の人が見に来たけれど、この日位早く開ければ良いのに店に人を入れる訳ではありませんでした。11時30分開店の予定が遅れてやっと中に入る事ができましたが、中は狭くて3角形のカウンターだけででした。私は一番奥に座りました。一番初めの人たちは、二階にテーブル席があるので上にあがりました。
 狭いカウンターの中に2人のシェフと3人の女の子、狭いので片隅に動かずにいました。直ぐにオーダーを取りに来るかと思っていたら、要領悪くてケチャプが無いと表に取りに行ったりしました。持ち帰りの人達も列を作っていましたが、初め30分待ちと言っていたのが、1時間待ちになりました。私自身2番目に入ったのに25分も待たされてしまいました。ハンバガーセットで飲み物付きで、味はこんなものかなーと特別な感じではありませんでした。チェックと言うと女の子が2千数百円と驚くばかり、私も繰り返して聞くと、なんの謝りも無くてシェフが間違いを正してお仕舞いでした。もう来る事は無いでしょう。

 近くの阪南中公園では、‘昭和のあそび広場’を開催して昔懐かしい紙芝居、あめ細工等、それに色々な遊びに沢山の人が群がっていました。御堂筋線をまたいで反対側に行き、次の会場桃ヶ池公園に行きました。公園にはいそこの市民活動センターでは田辺寄席‘大落語会’を有料でやっていました。

 公園には桃ヶ池があり、池は股(もも)ヶ池。公園と字が違うのですが、池の形が股と足に似ているから名前が付いたとかまあ色々謂れはあるそうでした。大きな声のする方に行くと、プロレスの真っ最中で仮面を付けたレスラーがコミカルにもかなりハードにレスリングをやっていました。解説が面白くマイクを使ってやっていましたので、結局最後まで見ました。

 疲れて、一日がアッと言う間に終わりました。帰り道に文の里商店街に行きましたが、店の半分はシャッターが降りていましたが、知る人ぞ知っている、大阪で有名な旭ポン酢が売っていたので初めて買って帰りました。
 
 
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251 大阪城と美しい大阪 

2012-05-26 05:44:07 | 散策
  大阪駅で環状線に乗る時に、長距離列車でも無いのに2-3分おきに来る列車に一々何時何分発と言っているのをご存知ですか?次の列車が2-3分したら直ぐに来るにも関わらず例えば、10時53分発のように言っていますが、多分ご存知無いと言うか気にしないと思います。
  人生会社を退職すると変な所に興味を見出すのでした。山手線の東京駅で同じ事を言っていたか、気にして無かったので、ご存知でしたら教えて頂きたいです。大阪に住んでいる今、まさか、その為に東京迄行けないです。時間だけは厳格な私もビックリしましたが、ここにもせわしげな大阪が現われていると思います。

 その環状線で前回と同じく2度漬け駄目の新世界の串や京橋店で昼ごはんに!ヤサイ串4本、味噌汁、小鉢、サラダそして白米がついて来て450円でした。安い美味い、さらにビールが290円で言う事ありません。それを頂き出発です。

 この前行ったほぼ同じコースなりましたが、森ノ宮迄環状線に乗って東京の兄と一緒に大阪城を巡ります。まず公園で花木の即売会をやっていました。大阪市の橋本さんが戦争をどう考えているか知りませんが、とりあえず65歳以上の兄は無料と知り、どうしても見てもらいたかった大阪ピースを見学しました。
 そこで大阪が50数回も爆撃にあった生々しさを充分に再認識。沢山の学生が、先生に連れられて見学していました。横で聞こえて来た、ある質問は、戦争当時日本の人口は幾ら位かと聞いていました。それに対して7000万人と答えていたのには、良く答えてたなと思い、流石先生偉いと感心させられました。
 (軍票を沢山もっているので、次に、できればここに寄付しようと思っています。) 

 メインの大阪城は、1931年に市民の募金で再建されたもので、1997年に国の登録有形文化財となりました。歴代の天守は約30数年で消失しているので、現在あるのが奇跡のように戦争で焼ける事無く、80年と一番長く持っていると言う事でした。裏側から入り桜満開で、あちこちで花見をやっていました。石山本願寺の蓮如上人の松の切り株を見学して、お城は近くで見ても本当に美しいと思いました。登るのは今回もパスして表道を探して帰路につきました。石垣の大きな3枚の石に、今まで見た一番の大きさにこの石を取り付けた人達はどんな気持ちだったろうと感にふけりました。
 
 大阪城を出て、この辺りは大阪らしくなくて、よく整備された、広い通りに高いビル群、その角にある大阪歴史博物館に行こうと、透明の屋根で隣接してあるNHKの喫茶店へ行き、喉の渇きを癒しました。 
 歴史博物館はその名の通り、大阪の成り立ちから綺麗な人形、映像とか模型で紹介しています。一番最初に最上階の9階から降りていきます。昭和になって発見された、学校で習った平城京より歴史的に古い、難波宮から始まります。ここに京都の清水を模した新清水寺の説明、江戸時代付近に高い建物が無く、すぐ近くに海が迫っていて、今以上に見晴らしが良く大阪で有数の観光名所だったようです。舞台は現在鉄筋コンクリートでとても当時を伺い知れないです。
 
 ここは展示物も意義あるものが一杯ですが、何といっても何度見ても素晴らしい、一度は見てもらいたいエレベータ-階の窓から見る大阪城でした。毎日見るニュース番組で出てくる風景、そのままよりも美しいと言わなくてはならない物です。見応えあるもので、大阪の良さを一番知らされる場所でした。

 この辺りに以前30年以上前に来てますが、すっかり変わり、確か日生球場があったと思うのですが思い出せません。その球場で、私の世話になったニューオーリンズのアメリカ人の方が、キリスト教の伝道サービスを開催すると言うので行った覚えがあるのですが、その面影は無くまるっきり新しく綺麗になっていました。多分場所違いと思いますが、新しいNHKのビルがそこにあるので間違いないです。

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250 生國魂神社

2012-05-05 05:22:50 | 散策
 本のタイトルも大人の街歩き‘大阪’谷町9丁目で地下鉄を降りました。まず、東海道膝栗毛にも登場したと言う、梅と桜の名所として名高い高津宮を目指しました。いつもですが恥ずかしながら、今まで高津宮そのものを知りませんでした。

 大きな道の裏手を行くと、両側にズート道沿いに大きなお寺がかなりな数がありました。丁度大阪場所をやっている最中で、1つ目のお寺、久生寺に高砂部屋が入っていて関係者以外立ち入り禁止となっていました。

 向かいにある園妙寺は歌舞伎(済みません詳しくありません)に縁があるそうで、看板の説明書きによると、この辺りに良質の水が取れるとして水の寺と言われたそうです。その横に公園に下りて行く道がありました。公園の横に雨の日に関わらず梅の花の道があったので、いずれにしても裏手に出ると思い進んで行くと開けた所が綺麗な梅の花が沢山咲いていました。そして公園が再びあって高津宮への石階段がありました。
 この立派な高津宮を今まで知らなかったとは情けなく思いながら中に入って行くと、かなり実際古そうな石柱に5代目桂文枝と書かれてあって、裏に落語協会の会長桂三枝とあり、思った程そう古い物では無くて平成のものでした。
 丁度結婚式の前で、沢山の人が写真を手にして待っていました。階段の下では、着物を着ているから新郎と思われる人と新婦が小雨降る中を傘をさされて待っていました。階段に通じる石畳の道は門まで長く通じていました。この景色だけで今日来た甲斐がありました。

 向かいに報恩時と言うお寺がありました。お寺には不動尊が法善寺さんのに負けない程のものがありました。このお寺も小さい割には見ごたえがありました。

 通りを挟んで不釣り合いのビジネスホテルと書いてある派手なホテルがありました。1つではありません、派手目の女性が先に朝から働くにしてはと思っていたら、後から来る連れを待っていました。ここはその手のホテル街でした。何故に高津宮が夜に門が閉ざしてあるか分かった気がしました。これが大人の大阪と思いましたが、良く本を見ると紹介されたレストランの値段が高い、今の私から遠い存在となった殆ど1万円以上となっていました。これが大人の大阪であるなら、まだ子供の域を出ていません。

 そこを一人で通り抜けて大通りへ、これは今まで見た中の道路で一番で、御堂筋より同じか緑の無い分広い通りでした。坂の真ん中でセンターラインの柵をまたごうかどうかと考えていましたが、パトカーが停まっていたので歩いて坂のしたへ陸橋を渡りました。

 生國魂神社(いくくにたまじんじゃ=いくたまさん)に行く為に急な、これまで大阪であった坂のある上町台地で一番急な坂を上がって行きました。そこであったのが大阪で一番古いと云われる大きな神社でした。裏から入って行きましたが、神社内にある神社群を指し示した流石大阪、矢印看板が色とりどりに8つもありました。
 
 その看板があって分り易く表示してありました。浄瑠璃神社があって反対方向に井原西鶴坐像までありました。先ず、右の方からと芸事に従事している人がお参りする凄く由緒ある様な、3つ神社が並んでいました。そこを右に行くと断崖占いと言う1人待合室の様な建物の横奥に女性の為の淀君が祭られてありました。まだまだ有るのですがこの辺で正門の方に向かいました。神社の人が乗るのかベンツが境内をゆっくり行きましたが、そこにある神社群の写真つきの看板に、それぞれに総てを成就する為幾らかかるか値段が載っていました。

 そこを出てもその手のホテル街でしたが、源聖寺坂があってここが清水さんへ行くのにはそんなに遠くは無いです。新規墓所受付中、赤い登りを3本上げて募集してました。

 下り終えて、しばらく行くとアパートが畳半畳位の入り口の横に、それと同じより狭い位の幅で5つ位門燈が付いているではありました。こんな所に人が住んでいるとは驚きでした。

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249 韓流ブームのその前に!

2012-04-28 05:46:01 | 散策
  ビルマ以外のアジアの国々にも方々いきました。シンガポール、マレーシア、フィリピン、香港、台湾、タイはカンチャナブリ、そして何時終わるかと思った韓流ブームの国が、益々ブームになって来ました。そのブームが起こるズート前の事、その時に何処に泊ったかも忘れる位大分前の事でしたが、セールスのミーティングで韓国ソウルに行きました。

 皆で日本料理を食べようと言う事になって日本料理店を探して入りました。今考えると良い時代でしたが、高々3-4泊の旅行で、どう言う訳か東京の人達は日本料理を食べたがるのでした。外国に行くと日本料理店を探して、無い時は中華料理で仕方無く済ますのでした。それは徹底していました。

  私の大阪の上司は反対に、国内で旅館に一泊した時の事ですが、朝ごはんに我慢できなくて、仲居さんにパンを買わせに行かすと言う具合でした。我がままが多いのが、私がいる頃の我が社の営業の特徴と言えました。私は、どちらでも良いのにと思うのでした。

 さて、皆で日本料理店を探して行きましたが、ソウルと言うとやっぱし河豚?ふぐはやっぱり変ですが、出てくるはずが無いのに、てっちりとてっさを食べました。多分呑んでいたせいもあって、板場のおっちゃんの‘だいじょうぶや’と日本で取ったと言う河豚料理のライセンスがあると言う言葉だけで実物を見ていないですが、それを信じて食べたのでした。多少の疑いを持ちながら、河豚を美味しくたらふく食べて、良く無事で生きていたものでした。

 しかし、考えて見れば韓国、朝鮮の事をどれだけ知っていたでしょう。高麗が朝鮮だと分っている事位しか知らないのでした。印象に残っているのは南大門や東大門でどちらか忘れましたが、豚の首が20程並べてあるのを見て残酷な所と思ったけれど、その民族の事を勉強したかなと考えました。

 今の韓流ブームに乗かっている人達もその歴史となると分らなくなり、2国間の過去はほぼ知らないと思うのです。今は知りませんが、私の時は学校で少し習っただけで、古くは朝鮮の国から色々学んで人の交流もあったけれど、隣の国の事を少しは知らなくてはいけないのですが、イタリアや英国の事を勉強しても朝鮮の事を習った事を覚えて無いのです。色々な事を学んだ国、隣の国にすれば秀吉とはとんでも無いですが、朝鮮を攻めた話も日本の本では加藤清正の虎退治、多分この辺からおかしくなって、私の学校時代。朝鮮合併の事も殆ど、その年代だけで終わって何の疑問も湧かずに過ぎて来たのでした。

 だから、英国ケンブリッジで日本海を泳いで韓国までどれ位と言われて、言葉に詰まったのでした。現在は年賀状だけですが友人にも韓国人がいて、鶴橋のモモタローに行ったり、それは色々食べました。現在は私の身のまわりにも韓国語を勉強する人が多く、大阪には韓国の人が日本で一番沢山住んでいると聞きいて、少し遅くなりましたが、朝鮮史の勉強始めました。50ページを超えた所で正直しんどくなって来ました。もう、少し頑張ってと思いましたが、もう少しがいいとこで、残念ながら諦めました。

 その当時は、そんな事を考えもせずに安いので、当時はレザーの上下を買って帰りました。駄目ですね!

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248 散策色々!

2012-04-21 06:47:51 | 散策
  これだと思った、こんな散策があってもいいかなと思ったのが、毎日夕刊に載っていました。何処の普通の町にも、それなりに違って見える事を紙面を半分近く使って書いていました。散歩日和としてどこにあるか知りませんが、大阪の東住吉区の針中野かいわいを紹介したもので‘天気が良くて、会社に用がない時は、なじみのない街を歩いてみたい。足が向いたのは針中野。土曜の昼下がり駒川商店街のおばちゃんや云々’私の意図している所が、何か見えて来た感じがしてきたと思いました(遅い!)。

 なにも寺社仏閣等有名な所を紹介するような散策日記ばかりで無く、普通に歩いてそこに何かを見つけたら書いたら良いのだと思いました。ぶらり何も特別な物が無い所、一般的な所に何かを見つける、これを書くのが難しい。

  自分で感心しましたが?今までの私の散策はその域に近かったと気づきました。今回の様に大阪廻りをやっているとどうしてもこんな風になっているのでした。と言うのも有名な所が少ないと思っていました。勿論、健康の為に目的も無く散歩するのは、それはそれで良いでしょうが、その様に、これから後も色々書いて行きます。何も無いと思われる所を歩き、無目的が目的になって良いと思いますが、私は何かを求めて散策日記を書く事に出来ればしたいと思います。でも、やっぱりまだまだ有名な名所旧跡も回って見たい。まあ、その辺りを目指します(どの辺りや!)。一日6回歩くだけの方がおられますが、ただ、歩く為に歩くは私にはやっぱり無理だと思いました。

 日経夕刊に、大阪にひっそりと‘清水の舞台’が玉出の滝がある音羽の滝と写真(2月29日)入りで江戸期に建立されていたと紹介されてました。 3月1日には通天閣、そして産経では3月10日には、細川ガラシャの越中井を紹介しています。丁度その記事の前に回ったので、だれでも興味が起きるのは同じ所と、流石に自分が先見の明があるのだと一人感じていました。しかし、この記事で、人それぞれに興味の的と言うか、持つ所が違うので面白く読みました。又、帰ってから見た物を興味を持って改めて調べなおすと言う事をするようになりました。

 このブログで以前自分の言ッた事を思い出しましたが、カリブ海を回って来た年寄りのグループの人々に昼食会に誘われて、何処が良かったですかと聞きました。その時、ダラスが良かったと総ての人が言われました。私自身、ダラスは一番良く行きましたが、お年よりが行ってそれ程良い面白い所とは思いませんでした。

 そのグループは乗り換え上、偶々ダラスに泊ったのですが、その方達が良かったのは、町にゴミが落ちていなかってとても美しい街だと思われたそうです。ダラスと言うと私の年代でしたら、ケネディが暗殺された所が有名ですが、そうか、こんな見方も出来るのかと思っていました。又、そんな風に思われるとは、私は旅行者がそこまで旅なれていないと思っていました。その時以来今の今まで、余り関係無いと今まで気づいていませんでした。

 20年程前にスイスに心の恋人つまり、私と同年輩で未だに美しい友達に会いに行った時の事でした。その友人の近所の普通の公園で子供と遊んでいて、当時こんな旅行も良いなと思った事を思い出しました。自分も同じ様に旅行を楽しんでいたのでした。今回のあの記事は、その素晴らしさに気づかせてくれました。そして自分もあのグループの人達と同じ様に、それなりに年を取って来たのを感じざるを得ない事となりました。
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247 桜の飯田橋から

2012-04-14 06:25:35 | 散策
 2006年、成田にいた頃、飯田橋から東銀座迄歩きました。飯田橋の西口を出て牛込橋から右前外堀沿いに遠目に見える立派な桜並木に、間に合って良かった思いました。早速、車道を渡り写真を何枚か撮りました。美しい。

 駅の右は神楽坂方面に向かいますが、今回は左に早稲田道を九段坂方面に目的地の千鳥ヶ淵に向かう坂を上り始めました。直ぐ青森県の物産販売APPLE BLD.の一階で買い物。何でも東京にはあるなと感心。そして何故か幽霊坂が3つも平行にありました。

 しばらく行くと黄色い通学帽子の小学生たち、私には奇妙な光景、どう見てもその中に外国人顔の子供が一人いました。多分その上にあった富士見小学校の児童だと思います。こんな遭遇にも東京を感じました。地図を見ると付近には日本歯科大、ルーテル外語学校、暁星高、和洋九段女子高、九段高の学校やシャミナード修学院などあり文教地区と知りました。

 そして、右手に平安神宮なみの立派な大鳥居が見受けられたので行くと花見の屋台がずらりありました。そこは靖国神社でした。まったく予定していませんでしたが、訪れたかった所なので早速、公人では無く個人参拝しました。(実際は無料の入り口迄)。韓国大統領が先日行きたいと言っていた遊就館に800円の入場料を払い見学。ただただ、日本の戦争参加の正当性を訴えた映画、展示品も上級将校ばかりの綺麗なものばかりで戦争の悲惨さを伝えるものも無く、私の年代では誰より戦争の実態の知識があると自負する私にとっては許されるものではありませんでした。アジアの国々に非難されるのが分かる靖国神社でした。入る前に買おう思っていた饅頭のことも忘れそこを心重く去りました。二度と来ることは無いと思います。
 
 そんな落ち込んだ気分もそこから5分程の千鳥ヶ淵のお堀を後ろにした桜並木の壮大な景色に打ち消されました。夜桜照明の最後の日と言うことで少し葉が多い桜もありましたが大変綺麗で御座いました。堀にはボートを楽しんでいるカップルが見え、できれば私は、ボートに乗ってお酒と桜を優雅に楽しみながら誰かに漕いでもらいたい。
 堀沿いに千鳥ヶ淵公園の桜並木を下っていくと立派な半蔵門がありそこから堀の幅が大変大きくなり、そして道から堀の水面までがどこも深い。二条城(外周1.8キロ)の堀しか知らずに育った私としてはその雄大な景色に圧倒されました。見下ろした大きな堀の向こうにはビル群、右手に国会議事堂、目の前の国立劇場との間の道は広く立派なものでした。

 その古い歴史あるものと新しさの融合した景色は世界でも有数のユニークな都市、東京にしか無いものです。ちょっと誉め過ぎましたが実際感動の景色でした。
 歴史に名高い桜田門をくぐり抜けてやたら広い皇居前ひろばへ向かいました。門の脇にある石垣の綺麗な配置に驚き、この感受性はまだまだ若いと自分で勝手に一人納得しました。

 この一日の体験での結論。この町には何でもあるから東京一極集中止む無し。残念そして、急に京都河原町通りの寂れた情景を思い、京の古い町家の破壊状況に寂しい思いをしました。戦争で残った歴史的な庶民のものの個人による保存は極めて難しいと認識させられました。昔から思っていたことですが、総ての歴史ある都市のテーマパーク化、昔いった倉敷、又は京都で祇園コーナーのような町の一部のみを保存すると言うように、日本国中一律特徴無し同じ町になる日もそう遠く無い事でしょう。
 ご注意 この地、東京に住んでいると、そこからは他の地域は見えません、必要なし。まあ、東京独立国家ですね。
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246 ビルマ 

2012-04-07 07:42:11 | 散策
 突然ビルマですが、大阪ピースを見学して、スー チーさんも勝利に、これは書かなくてはと思いました。40年近く前、まだミヤンマーがビルマと呼ばれていた頃に合計3度もビルマに行ってます。ビルマが鎖国を止めて何年かたっていたと思います。
 ビルマ航空のチケットも買え無い状態でしたので、シンガポールの旅行社に頼んで切符を空港内で受け取ると言う事で、先ず最初からビクビクで心配でした。

 飛行機に乗ってビックリ、サービスは何度も使い、色が茶色に変わっているプラスチックのコーヒーカップで出てきました。その当時は煙草を機内で吸えたのですが、そこで隣の人がマッチと言うと、使いふるしたかなり大き目のマッチがでてきました。何もかもが珍しいものでした。

 一度はどこの空港か忘れましたが、50人程のプロペラ飛行機で、中には戦闘で負傷した兵士は乗っていて、何と草原の滑走路に降りました。草原に降りたのは後先初めてでしたが、着陸した時は気持ち良くクッションの上に降りた様でした。

  京都の128戦友会のメンバーとご一緒させてもらい、グループとして移動しました。最終的にラングーン、マンダレー、パガンと色々回りました。初めて行った時の事ですが、顔に白い刷毛で書いたようなものが殆どの人に付いていました。てっきり皮膚病かと思っていました。寺院で裸足にならなくてはいけなくて、病気がうつったらどうしようかと本当に怖かったでした。後で日焼け止めの為だと分かりましたが、町の家々は、ガラス窓は無くて総て鉄柵で凄い所に来たなと思いました。男女総てに服装はロンジン(腰巻の様なもの)を着用でしていました。ラングーンのホテルはインヤレイクホテルでそこだけ立派でしたが、首都を離れると壁にイモリがいるホテルでした。
 
 現地での日本人受けは本当に良かったです。長年のイギリス植民地を解放してくれた日本が、統治期間も短くて好意を持ってくれたと思いました。日本軍が連合国に敗れて逃げて行く時でも、軒先に食料品を置いてくれたそうで、暫く立つまで、日本軍に対する反感が怖かったですが、その時もどの人も優しくしてくれたと聞きました。私の父親の年位の128戦友会の人達と気安く付き合ってもらいました。

 別の時、二人の女性が一緒で、田舎に行くとトイレがありませんので、草原の草を積んだ広い所迄行って大地の真ん中で用をたした事がありました。違う時に、おばあさんの名は確か木村(はな)さんと思いますが、82歳のおばあさんが一緒になりました。
 印象深い人でした。その頃こんな物があったのと思われる大日本帝国のパスポートを見せてもらったのでした。お医者さんとして現地に住んで、マラリアの患者を沢山診られたといたと言う事でした。マラリアの患者を診るのに、なんと蚊帳の中に患者を一人一人診察していたと言う話でした。自分でも日本人で一番マラリア患者を診たと言っていました。
 現地では露店で売っている食べ物を、買い食いするなど私には衛生上、信じられなかったでした。歴史にのらないこの様な人がいたのでした。

 その後、その方達の誘いで先斗町で芸者遊びと言うものも味わいました。銀閣寺の‘のんき’と言う高級なお店のご主人に可愛がってもらいまして、何度かお帳場でお酒を飲むという事とか若い時は色々経験しました。そのご主人が、兵隊ヤクザの様な方で規則に逆らう面白い話を色々聞けました。特に馬に投網を乗せて移動したと言う事も武勇伝として印象に残りました。中尉だった人がいて、その方が随分怖かったのでしょうと聞きました。弾は前からばかり飛ぶとは限っていないと戦争中は将校は、おちおち出来なかったそうでした。
 戦争の悲惨さも私の年代でしたら、良く聞いた方です。ヒルが身体に何匹も付いた時は、取れないからタバコの火で取ったとか、戦車が通った時は手足が飛んで行ったとかと言う事も聞きました。残念な事に、その方達も殆どが、鬼籍に入ってしまいました。

 色々経験しているので自分でビックリします。
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245 大阪も綺麗な所あるやん!

2012-03-31 06:21:14 | 散策
 大阪を散策し始めて、今までの吉本、大阪のおばちゃん、豹柄等々、それもあるけど違う大阪もあるんだと気付いたのがここ2-3回でした。お寺の数は、大阪府の方が、京都府より多いのに気付き、まだまだ知らない地域が多いと改めて見直しました。この前、初めて降りる駅として、玉造駅で降りましたが、玉造稲荷神社に行っていないので今日はそこから始めました。

 同じ駅で降りるのも芸が無いと、1駅手前JR森ノ宮で降りました。この駅も初めてで、先の方が便利と思いましたが出口は後ろ側に一つだけでした。右手に大阪城公園を見て信号を渡り、結局お城を後ろにして玉造神社へと行きました。

 途中幹線道路を外れて、いい加減に公園を横切って歩いて見て気づきました。大阪には公衆便所の数が少ないと、東京との違いが分かりました。東京は公衆トイレが多いのに、公衆道徳が悪いのか、比較的に広い公園にもありません。別にトイレに今行きたいのではないのでしたが、大阪維新の橋下さんなんとかしないといけません。

 ここにも坂があって(大阪にも坂があります、総て今までの坂は上町台地です)道路も片側1車線あり歩道もあって広くて良く整備されていて、今までの大阪のイメージが次第に変わったて来たのでした。坂の上に玉造神社があり裏から細い道を登って入って行きました。丁度、1組が七五三のお祝に社殿の中で祈ってもらってました。大阪城に行こうと思って正面で無く反対側から出ようとして、秀頼が奉納した鳥居があるのを思い出して又戻りました。
 戦災にも倒されずに来たのが、私の本によると、先の阪神淡路大震災で倒れたとの事で半分埋もれていると書いてありました。境内の端に沢山の石が置いてあるのでこれかなと思いました。やっぱりこの古い柱に違い無いと、反対側を見ると、鳥居の2メートル程上だけが頭を出していたのでした。
 一度はそこから出ようとしたのですが、見逃すはずが無い程大きな銅像、残念ながら見逃していましたが、今まで何を見て来たのか、大きな秀頼の立像があり公家服を着ていました。この辺りは良質の水に恵まれたと千利休居士顕彰碑があって、住居も近くにあったとの事でした。伊勢迄歩講起点と言う指針があり横に神宮まで170キロと書いてありました。‘笑いを大切に’と言う秋田実の石碑もたっていましたが、総てを見逃す所でした。
 
 舗道もある比較的に広い道を行くと陸橋を渡るとピース大阪があります。大阪にこの様な立派な施設、つまり戦争の悲惨さを伝える物があるとは知らなかったでした。入場料も、多分みんなに見てもらいたいと言う250円でした。入口入ると、大きなきな爆弾が目の前に、こんなに大きな物が何度も50回以上、数限りなく落とされた大阪が何も無くなるのは当然と思うように飾れていました。靖国神社と比べて見て、戦争の悲惨さがずっと分かるものでした。

 そこを出て大阪城のお堀の石垣は特に立派なものでした。その堀のそばに梅林があって満開で沢山の人が鑑賞してました。昔昔、多分小学生の時に一度来て天守閣に上がるのにエレベーターで上がって、その鉄筋コンクリートに大阪城はツマラナイものと決めてそれ以来きてません。しかし、この年になって、大阪人がお金を出し合って大阪城を再建したと、今なら素晴らしい物と思えるようになりました。外国の人、それも中国系の人が多く、そこで、大阪土産に何かないかと思いましたが、殆ど街中で買えるありきたりのものでしたが、もう少し大阪城を主体に考えれば売り上げ伸びるのに残念な事でした。とりあえず大阪城の形をした、もなかを買いました。
 特に外観は特に一見に値すると思いました。ちなみに外観だけで、中は今回は止めておきます。

 

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