旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

312 バイトのバイト

2013-07-27 05:39:12 | 思い出日記
 挨拶代わりに会う人皆が暑いですねと連発です。去年の事は覚えていないけれど、梅雨が終わると急に暑くなったと思います。夏冬エアコンで育っているアメリカ人の肌は鈍感になっていて、冬でもTシャツだけですが、私の小学生の頃は、京都の普通の家ではエアコンというものが無かったです。それでも暑さは感じず、夏休みになると、御所に行って毎日カタビラ蝉を50匹以上採ってました。その数の多さが自慢でした。しかし、今となっては簡単に手の届く範囲に蝉がイッパイいて、誰でも手で採れる程増えています。

 こんな中、私の生活と別世界、アベノミクスとか言って世間的には景気が上向いているとの事です。私は絶望的に、とんでも無く安い給料を20%減らすという事になりました。まあ、減らせる給料を貰っていたと思って私は諦めています。現役時代、夏のキリギリス宜しく遊んでばかりいたつけが回ってきて、さて、これからどうやって生活していくのか、いつものパターンでです。今さら生活水準を落とす訳にいかないのに、困ったものです。定年前には、一応外人専用のゲストハウスを考えていたのですが、その家の借金が残っただけで、素人アイデアで実現には至らなかったです。実はアイデアだけで、真剣に考えていなかったのが判明しました。遅い!

 仕事を探すにも、私の年になると殆ど募集がありません。とりあえず現在の仕事をしていく間に、チラシ配りと言うものに応募しました。散歩代わりに丁度良いなと思ったからでした。今度、受け持つであろう所は、1軒屋ばかりですが、大変です。

 まだ、採用された訳ではありませんが、廻る予定の地図をもらって1,700軒を週に2回に分けて回るというものでした。これを現在の勤務時間以外に廻るというものです。下見に自転車で廻った所、京都と違い道がややこしくて、坂が多くて道が入り込んで、抜けられると思ったら袋小路であったりしました。とってもハードな散歩となります。

 名称が思い出せませんが、多分、学生援護会だったと思います。今は昔、今出川烏丸上がった所にありました。確かそう広く無い場所に毎日通っていた事を思い出します。そこで短期長期のアルバイトの募集をやっていまして、私が欧州に行く為に良く行っていました。その時様々な仕事を経験しました。
 引っ越し、掃除手伝い、土産物屋さんの売り子、時代祭の旗持ち、イベントの会場設定等、もっとやった事は多かったですが、最終的に夏冬休みは阪神デパートの配達、究極に万博でガーナ館のココア売りのバイトを長期間やりました。
 
 どれも給料は良かったでした。それと、頭を使わなくて良いものばかりでした。そして、今も同じく頭を使わずに1軒3.5円は、若いつもりで採用されたらやってみようと思います。
 
 ウェスト64.5、まだまだ若いです(^<^)! 仕事あったらお願いします、誘って下さい <m(__)m>

311 愛されるべき変わり者

2013-07-20 06:16:10 | 思い出日記
 旅行に傘を持って行ったことがありません。シアトルはアメリカでも有名な雨が多い所なのですが、何度も行っていますが雨知らずでした。一度はレイクタホで、雪が無いのにスキーに着いたら突然に雪が降るということがあって、自分自身、天気男、晴れ男と思っています。友人で雨男がいまして、ハワイで本人が行く先々で自分の周りだけ雨が降っていたという友人がいます。晴れ男の私が同行した時は、風が強くテニスをしているとボールが風で戻ってきて、大きな気が折れたことがありました。
 
 所がどっこい(暫く聞いたことが無くて、死後となった言葉?)、仕事で地方に行くと良く雨になりました。仕事雨男、遊び晴れ男です。この辺は実に都合が良いと思います。昔、月に2度は京都は営業に行ってましたが、その度に良く雨、にわか雨、そして通り雨であった事を思い出しました。今年になって3度京都に帰ってますが、その都度雨にあっていることを思い出しました。

 今回も、すごい雷雨でした。祇園祭で人がいっぱいの京都でしたが、人が動かずにオオジョゥしました。友人が営業をしているので行こうと予定していた老舗蕎麦屋‘尾張屋’での昼食を雨で残念ながら諦めました。そして、いつも行くお墓参りもあきらめました。突然再々降る強烈な雨で、仕事以外の時も京都では雨に遭う事が分りました。

 仕方なく、予定より少し早めに、入退院を繰り返されている方のお見舞いに行く事にしました。特にお世話になった御主人は15年前に亡くなられましたが、前回病院に行くと寝ておられて、凄く年老いたと思われました。今回は自宅で、達者な口ぶりで疲れるのではと思われるほど、2時間程づーと話されました。90歳になっても、髪の毛は黒くて話はハッキリして、ちょっと耳が遠くなられた位で安心しました。

 話は違いますが、このタイトル表題‘愛されるべき変わり者’を、自分が作った面白い言葉だから使うように提言した友人や、どういう訳か、私の親しくなった友人達は一般人と家族からすると、少し変な人々だと指摘されます。

 例えば、股旅姿で剣を片手に持った姿の写真付きの年賀状を送ってきた、それも私より少し年下の人。地球の危機で食べ物が無くなった時に、梅干し一粒で一日持つらしく、それも和歌山や三方5湖の梅干しが良いと20㎏も家に置いている人(この話は長いのでいづれ)。ちなみに、スーパーに売っている梅干しでは駄目だそうです。私宛てと違い、娘に年賀状を送って来る友人。

 世界の国々の人口を、その他の数字を、さも本当の如く端数までいう人。年金6万円で生活する人。大阪から東京までJR以外の私鉄で行けるかと問い合わせたら、ここの区間はバスなる。そして、プラハからローマ迄電車で何時間かかるかと、即座に答える鉄道お宅等々。ざっと、特にアクの強く書き易い人達をあげました。

 こうみると、私の周りにいる人達は確かにちょっと変わっています。‘愛されるべき変わり者’でも、変な人を見分ける、私はまともで大丈夫だと思っています。

 

310 健康診断から...

2013-07-13 05:59:13 | 思い出日記
 年に1回の健康診断です。一応健康には気をつけて、診断前2‐3日お酒は止めようと決めていたのです。凄いのはその前から続けて10日間も最終的に飲まなかったのです。初め血糖値が108(以前は良く126‐130まで上がってました)と数値が比較的に高いので止めていたのですが、2日しても下がらないので結局10日も続けたのでした。

 始めた当初2-3日はきつかったですが、3日もすれば平気になりました。だけど、偶に見るテレビのCMで美味しく飲むのを見ていると自分も飲みたくなるものです。CM上手に作ります。診断後、早速昼から飲み始めました。
 結局、止めようという意思の強いか弱いか、それが問題になってくると思います。薬物中毒の人が薬を止めても又、元通りに戻るというのも分るような気がします。今、又血糖値を心配しています。(江夏も次はないと、薬物止めてくれると願っています。)

 禁酒法じゃないけれども禁煙法も作ればいいのに、JT日本煙草が税金を稼ぎ出してくれるから、余りに多くの人が吸っているから禁じられなくなってしまっていると思います。世界で煙草が原因で600万人死んで、マリファナや大麻と変わり無いのと分っていると思います。だから煙草と同じにマリファナを認可するか、その反対に煙草の販売を中止する様にしたら良いと思います。

 欧州にいた頃、マリファナを吸う機会が何度かありました。4‐5人集まったら、誰かが持っているという雰囲気でしたから手に入れるのも簡単だったはずです。当時で、吸うチャンスあるんだから、今の日本ならもっと吸う機会があるはずです。

 お酒に関してはアメリカは州によって厳しいものがあります。40代の頃だったと思いますが、ビールを買いに行ってIDを見せる様に言われました。私の場合は、若く見られたので喜んでいた事を思い出しました。確か、オクラホマ州だったと思いますが、空港でお酒の販売はかなり制限されていたと思います。

 アメリカの禁酒法があった時の話がLawless‘欲望のバージニア’として、今上映されています。本当にあった話という事なんですが、タイトル通り、法というものが無かったと思うような荒くれ兄弟の映画でした。アルカポネが健在だった頃の警察の弱腰、汚職、アメリカではこの流れを変えるのは大変だったと思います。映画を見始めて、スローで大した映画で無いと失敗した思っていました。3人兄弟の話で、一番下の弟がメインでした。でも2番目の兄がその弟の存在を忘れ、どちらが主役か分からないほど、演技が無口な役に合って良かったです。

 健康診断から禁酒法、まして映画‘欲望のバージニア’に話しが行くとは思いませんでした。久々の大阪、心斎橋通り、HMでウエストが70を切り67㎝になった記念に赤のハーフパンツを買いました? 昔良く行った店でまだ仕入れ中だったのですが挨拶、出来て間もない超高層の阿倍野ハルカス、総てにおいて満喫しました。

309 ‘牙’ 江夏豊とその時代

2013-07-06 02:59:43 | 思い出日記
 どことなく、強者、権威、体制と呼ばれるものに歯向かう匂いがあった、そんな江夏豊が大好きでした。後藤正治(著)の‘牙’という本は余すところなく江夏の事を書いています。あの頃は、スポーツというと野球で、60年から70年初めまで丁度、長島と王が活躍していた時で、日本経済が右肩上がりプロ野球全盛期でした。私は当時、阪神が大好きで長島と王を打ち取る江夏が特に好きでした。まさに強者に一人で歯向かう、私にとってはヒーローでした。

 デンマークにいた時に、71年夏のオールスターの記事を兄が送ってくれました。江夏がなんとパリーグの強打者9人全員を、三振に取った記事が載っていたのでした。最高に嬉しかった事を思い出します。何と言っても3振を取って、悠然とベンチに引き揚げてくる江夏は最高でした。阪神を辞めさせられて、身体を悪くして相撲取りのようお腹になって他球団に行って大きく回るカーブで三振を取った時と訳が違います。
 阪神で優勝できなかったのに、その後優勝請負人として活躍しました。日本シリーズの広島で最終回に奇跡の21球と言われる球を投げたのですが、その時の活躍と比べ物にならないほどの阪神のエースでした。

 後藤正治さんの本は‘スカウト’、それとこの本を2冊読みました。1986年に、阪神川藤の現役最後の‘最後のひとふり’という表題のノンフィクションを書くまで、医学ジャンルの仕事を手掛けていたということです。野球少年が大きくなって、スポーツ関係のものを書いている人と思っていたのですが、才能あるひとは一味も二味も違うと知りました。野球を知らないと、ちょっと厳しいかも知れませんが、江夏は勿論、色々野球に繋がっている、ほかの人達の人生、70年前後の社会情勢を知る意味で良い本だと思います。

 あちらは高校出て、直ぐに阪神で活躍、一方欧州に行き自分の好きな事をやった。私とほぼ同じ一番いい時期に青春を送っています。野球ファン以外も詳しくは本を見て下さい。

 昔は、物があまり豊富で無く、金さえあれば、今の様に何でも買える訳ではありませんでした。小学校に入る前後、うっすらと覚えているのは、停電があった事でした。今、停電があったら大変な事になると思いますが、蝋燭を点けて、家族で過ごした事が確かあったとぼんやり記憶します。一般家庭に電気冷蔵庫(今の冷凍庫位の大きさの中に、氷を入れただけの冷蔵庫があました。)も無く、テレビも勿論ありませんでした。小学生の時に、親戚の家で初めて掃除機なるものを見て、ビックリするより、そんなので掃除ができるはずが無いと思っていました。

 そんな時代を生きて来た事が、嘘の様です。テレビが来た(私はこう言います)頃も、アメリカのホームドラマが人気があって、その当時我が家になかった対面式の流し、そして大きな冷蔵庫があったのを覚えています。それを羨ましいとか何とか思わずに、テレビの向こう側の事と思っていました。 

 こう考えると、自分がなにか歴史を通して生きている様に思います。現在は多くの得、同じように多くを失ったのではと思います。